鬼木達監督のラストメッセージ。愛する川崎フロンターレへの望み、今後への願いとは【特別インタビュー】
「フロンターレの色は消さないように」
26年、苦楽をともにしてきたからこそ――。鬼木達監督は愛する川崎へ多くのメッセージがある。その想いを語ってもらう特別インタビューの第3回目である(全4回/3回)。 【PHOTO】両軍、クラブを発つ監督に勝利を!負けられない最終戦は家長・小林のゴール含む3得点で川崎が有終の美を飾る!|J1第38節 川崎3ー1福岡 ――◆――◆―― 鬼木達、50歳。1993年のJリーグ元年に市立船橋高から鹿島に入団し、1998年に川崎へレンタル移籍。翌年は鹿島に戻り、2000年に川崎に完全移籍し、度重なる怪我により2006年に引退。その後は、川崎で指導者の道を歩んできた。 川崎歴は通算26年。人生の半分以上をこのクラブのために過ごしてきたことになる。 何より貴重だったのは、勝利に徹する“鹿島のカラー”と、ピッチ外でも人々を楽しませる“川崎のカラー”をブレンドできる人物だったということだ。 「自分は鹿島でスタートしていなかったら、間違いなくあそこまで現役生活をしてこられなかったでしょうし、鹿島での勝つための努力や雰囲気を知らなかったら、監督としても勝ち方を知らなかったはずです。その意味で言うと、大きかったのはジーコさんの存在。プロとはこうあるべきだと教えてもらいました。鹿島で自分はなかなか試合に出られませんでしたが、それこそ(鈴木)満さん(長年鹿島の強化のトップを担い、現在はフットボールアドバイザー)もサテライトの監督をしていて、クラブに関わる人たちの熱量を含めて勉強になることばかりでした。 当時、Jリーグが始まったばかりで、正直言うと、むしろ僕みたいな新人にもチャンスがあるんじゃないかと思っていたんです。でもそんな淡い期待はすぐ打ち砕かれて(苦笑)。でも、やっぱり鹿島でプロとはなんぞやと学べたのは大きかったですね。 だから川崎で17年に初優勝した際にも『この雰囲気を覚えていてくれ』と話したんです。試合に出ている、出ていない関係なく、この時はこうだった、こうしたから勝てたと記憶に残っていれば、今後に活きる。なぜ勝てて、なぜ勝てないのか、そこですよね。当時の鹿島は結構押されていても、戦っていた選手たちは『余裕があった』と。ここを抑えておけば、やられないというような、記憶がそういう余裕につながるんですよね。 一方で(当時はJ2生活も長かった)川崎に来て、驚くことも多かったですし、鹿島と同じことをやっても絶対に勝てないなとも感じました。川崎では個々が特長を出せるようにと言いますか、そこはヤヒさん(風間八宏前監督)の影響も相当に強いんですが、様々な意味で魅せて勝つ。だからすべて鹿島ではないし、すべて川崎ではない。優勝の経験をちょっとずつ入れながら、だけど、フロンターレの色は消さないように歩んできました」