退任する落合GMが中日に残した功罪とは?
中日は、落合博満GM(63)の来年1月末の任期切れと同時にGM職契約を更新しないことを発表し、落合氏は退団することになった。今季8月に谷繁元信監督が電撃途中休養を申し渡されたときに、チーム内外から落合GMの責任論を問う声が強くなり、一番の理解者だった白井文吾オーナーも、これ以上かばえなくなった。落合サイドは契約に関しては高額な違約金の設定などを盛り込んでくるため、GM契約を更新した場合、契約に縛られて今後身動きが取れなくなる可能性も出てくるために、思い切った“落合斬り”が断行された。 落合氏がGM就任したのは、2013年オフ。高木守道監督が指揮をとって2年目となるチームは13年ぶりにBクラスに低迷。チーム再建のため、当初、監督候補として落合氏の復帰案が浮上したが、落合自身がGM案を提案、野球理論にたけていた谷繁を兼任監督として抜擢、落合がGMとしてサポートするという、中日では初なる斬新な球団改革が断行された。だが、この3年間で、チーム成績は4位、5位、最下位と低迷を続けて落合GMは、結果を残すことができなかった。 今後、中日はGM制度を採用しない方針だが、落合氏は本当にGM失格だったのか。その功罪を検証してみる。 落合GMが、就任直後に断行したのが、契約更改における大胆なコストカットだ。20人を超える選手の年俸を、選手会との間で定められている限度額いっぱい、もしくはそれを超える金額まで下げて約8億円もの削減に成功した。大減俸に納得できなかったチームの中心選手だった井端弘和は、それを事実上の戦力外通告と受け取り自由契約で巨人に移籍した。翌年オフにも大量15人を引退、戦力外に追い込み人件費は削減したが、逆にこの時首を切った吉川大幾、堂上剛裕が巨人へ移籍して、翌年は巨人で戦力になるなど、“見る目”の無さを露呈することになった。 「ある程度の予算を預けられていて外国人も含めて、その中でのやりくりの決定権は私にある」と、落合GMは、ある球界関係者にチーム内におけるGM権限について語っていた。確かに無駄なお金は使わずに、他所をお払い箱になった巨人の小笠原道大や、ソフトバンクの育成だった亀沢恭平を獲得して再生する小さな成果はあったが、GMとして最も重要なチームを強くするための戦力補強は、ほぼ失敗に終わっていた。 特に顕著なのが、ドラフト戦略の失敗だ。 ドラフトでは「高校生は時間がかかり効率が悪い。上位指名以外では高校生はいらない」との方針を貫き、この3年間で育成を除き計21人を指名したが、そのうち19人が社会人、大学、独立リーグ出身の即戦力と偏っていた。落合GM自らが頻繁に社会人、大学野球の現場に足を運んだが、そのうち本当に即戦力となったのは、又吉、祖父江、遠藤の3人くらい。昨年は、地元岐阜の高橋純平の1位指名を巡って、落合GMと本社、スカウト部の間で衝突も起きていた。結果的に高橋を指名、くじではずれ東海大相模の小笠原慎之介を指名したが、高校生を獲得しないという偏ったドラフトを続けたツケが回ってきている。スカウトの人間よりも、自分の目やブレーンの意見を重要視するなど、編成組織の長としての管理能力にも欠けた。