【2025年大河ドラマ】主人公・蔦屋重三郎が躍動した「江戸の出版事情」、欧米列強が驚愕した“日本人の能力”とは?
見料(レンタル料)は、新本なら1巻24文(約480円)、古本なら16文(320円)程度でした。古本は二八そば一杯の値段と同じだったというわけです。 ● 江戸時代の本は、どのようにして作られたか? では、地本問屋では、具体的には、どのような工程で本を作っていたのでしょうか。 まず、版元が企画を立て、著者に原稿執筆を依頼します。絵が必要な場合は、絵師に依頼します。 原稿ができあがると、版元は、それを清書したものを、「仲間」の集まりに提出しました。江戸の本屋の間では1722年、本屋仲間が作られていたのです。それを主導したのは、幕府でした。商業出版が盛んになると、政治を批判する本や好色本も出てきました。そこで、幕府は、風紀を取り締まるため、本屋に「仲間」を作り、自主的に検閲することを命じたのです。 また、江戸後期、出版がさらに盛んになると、各版元の本の中身が重複するケースが多くなりました。そこで、似たような作品を禁止するためにも、仲間内で草稿段階から相互チェックしていたのです。 そうして、仲間の「OK」が出ると、版元は清書したものを版木屋へ渡し、彫師が板に文字や絵を彫っていきます。校正して文字の誤りを正した後、摺師が刷り上げました。 その段階で、刷り上がった本を再び仲間の世話役に提出して、再度チェックを受けました。それに通過すれば、「売弘(うりひろ)め」、つまり「売ってよろしい」という許可が出ました。 この2度目のチェックは、おもに内容を自主規制するためのものでした。そうしなければ、幕府が介入してくる恐れがあったからです。ことに、寛政の改革や天保の改革の時期には、厳しい出版統制が行われました。そうした幕府の介入を防ぐため、自分たちでチェックし合っていたのです。このあたりは、現代の映倫などのシステムとよく似ています。 その後、見本摺ができあがると、版元は営業に回り、人気のほどをはかって初版部数を決め、「本摺」に入りました。摺師が決められた部数を摺り、製本します。 そうして、ようやく販売にこぎつけることができました。
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