大道芸人・ギリヤーク尼ヶ崎に魅せられた表現者たち(後編)
近藤さんは生きるために踊る姿勢を貫くギリヤークを認め、拍手よりも投げ銭がありがたいのだと、行動で示したのだ。
ギリヤーク魂が吠える
舞台公演先から、ギリヤークの大道芸へと衣装のままで駆け付けたこともある。「近藤さんが、雨に濡れながら駆け付けてくれて」「だってギリヤークさん、雨に濡れながら踊ってるんだもん」 近藤さんは直感的にギリヤークの本質を見抜いている。「雨とか雪とか味方につけちゃうの。ギリヤーク魂が吠える」
街頭ものが文化を作る
とはいえ、やはり路上の芸。一度も自分の大道芸をみてくれなかった母。ギリヤークの心には、その傷跡がずっと残る。街頭で踊らなければ、近藤さんとも出会わなかった。街頭で踊ってきて良かった。その思いはあるけれど。
「だってね、河原乞食って呼ばれた時代なんだから。本当にきついんだ、街頭なんて。下は石や河原だったりするし、雨は降るし、風は吹くし。」近藤さんが、はばからず言う。 「けれども、やっぱり街道(かいどう)ものは文化を作ってきている。俳人もそう。芭蕉や一茶も、旅から旅へと。居を定めずに旅ばかり。だからそういう意味では、もう今やそれを継げるほどのパワーは日本にはない。“道で見せる芸”はこれからもある。だけど“道で踊る芸”はもうないね」 ギリヤークは関わっていないが、東京都では2002年から指定場所での大道芸を許可するライセンス制度ができ、昨年は284組が応募、31組が合格した。近年では大道芸人は憧れの職業のようになった。 大道芸人があまたいるこの時代に「最後の大道芸人」と称されることがあるギリヤーク。彼を「特異な存在」と断言する近藤さんは、彼が背負うものを、はっきりと見つめているかのようだった。 その上で、近藤さんは尼ヶ崎勝見に「あなたお母さんには、たくさん良くしてあげたじゃない。俺見てるし」と優しさを手渡すのだった。
神とともにある鎮魂の踊り
1995年1月17日の阪神大震災の1カ月後、神戸での踊りはギリヤークの転換点となる。「お前の踊りなんか見たくない」という死者の声が聞こえるような気がして、一瞬踊りが止まってしまった。あらためて、場の思いに全身全霊で向かい合った。この日を境に「鬼の踊り」は「祈りの踊り」となった。 2001年9月11日の1年後には、ニューヨークのグラウンド・ゼロで踊り、2011年3月11日の東日本大震災の後は3年間続けて宮城県の気仙沼で踊っている。