『光る君へ』道長の異母兄・藤原道綱ってどんな人?三条天皇から頼りにされるも退位を迫る?道長の病を喜んだ?
■ 読み書きできる漢字は自分の名前だけ? 道綱は長徳3年(997)7月5日、秋山竜次が演じる藤原実資を追い抜いて、大納言に補任された。 実資は道綱より2歳年下である。 実資は、道綱が自分より先に大納言となったのが納得できなかった。 彼の日記『小右記』同日条において、道綱の大納言昇進がいかに道理に反しているかを綴り、道綱を「名前が書けるのみで、一や二という文字すら知らない者である」と、厳しく評している。 ■ 居貞親王(三条天皇)から頼りにされる 長徳3年(997)に大納言となった道綱は、木村達成が演じる東宮(皇太子)居貞親王(後の三条天皇)の東宮大夫(春宮大夫)も兼ねることとなった。 この時、居貞親王は22歳、道綱より21歳年下である。 以後、道綱は長い間、居貞から深く頼みとされることになる(倉本一宏『三条天皇――心にもあらでう世に長らへば――』)。 道綱は10年の間、東宮大夫の任にあたった後、寛弘4年(1007)正月28日に東宮傅(皇太子の教育を司った官)へと転じた。 その後も、寛弘8年(1011)6月に居貞親王が践祚し、三条天皇となるまで、道綱は引き続き、居貞親王の世話や教育、そして、相談相手を務めたという(川田康幸『『栄花物語』における藤原道綱像:その叙述の特色』)。 東宮傅は一種の名誉職で、ふつう大臣が務めた。大納言で東宮傅の任についた道綱は、例外である。 道長は少なくとも表面上は、「一家の長老」として、道綱を遇していたと思われる(以上、伊藤博『蜻蛉日記研究序説』)。
■ 道長の病を喜んだ? 長和元年(1012)2月14日、道長の二女・倉沢杏菜が演じる姸子が三条天皇の中宮となると、道綱は中宮大夫に任命された。 一方、道長は病に苦しんでおり、『小右記』同年6月20日条には、道長の病を喜ぶ公卿が五人いるという風説が流れていることが記されている。 その五人とは道綱、実資、隆家、藤原懐平、藤原通任だという。 ドラマと同じように、道綱もこの噂に肝を冷やしたかもしれない。 しかし、『小右記』同年6月29日条には、道長が、「道綱、実資、懐平、通任に関しては噂を信じていないが、隆家だけは信じている」ということが、また同年7月21日条には、「道綱と実資は自分(道長)の病を喜ぶ者ではない」と称したことが記されている。 道綱も安心したのではないだろうか。 ■ 道長とともに三条天皇に退位を迫った? 長和3年(1014)2月9日、内裏が焼亡した。 同年3月12日には、大宿直、内蔵寮不動倉などが焼亡し、宝物も焼失してしまう。 『小右記』同年3月14日条によれば、この火災の後に道長と道綱が連れ立って、「天が主上(三条天皇)を責め奉ったのだ」と、三条天皇に奏上したという。 三条天皇は病脳により、目と耳が不自由な状態となっていた。 道長と道綱は、三条天皇に退位するよう仄めかしたと思われる。 三条天皇は皇太子時代から頼りにしていた道綱が、道長とともに責めてきたことにショックを受けたであろう。 また、道長もそのために、道綱を伴ったのではないかと考えられている(以上、倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。 実資は、道長はともかく、なぜ道綱が同心するのか。愚なり、愚なりと日記に綴っている。 三条天皇は長和5年(1016)正月に譲位した。道長の外孫・敦成親王(一条天皇と見上愛が演じる彰子の皇子)が践祚し、後一条天皇となった。