aiko49歳に 「テレビいっぱい出ろとか言うのやめてください」→スタッフ全員が下を向き、その後…20代の頃にショックを受けた“出来事”とは?
そもそもaikoがこうしたスタイルをとるようになったのは、デビュー前夜にさかのぼる。彼女は大阪音楽大学短期大学部に在学中の1995年、ヤマハ主催のコンテスト「ティーンズ・ミュージック・フェスティバル」でティーンズ大賞を受賞、さらに卒業後の翌年には同じくヤマハ主催の「ミュージック・クエスト・ジャパン・ファイナル」で椎名林檎らとともに優秀賞を受賞した。
「曲作りが追いつかなくなると、アーティストは消えていくんだよ」
このときの受賞を機に複数の事務所からスカウトを受ける。そのなかにあって、スカウトするわけでもないのに電話をくれたのが、のちに所属する事務所の社長だった。社長は電話をくれるたび二言目には「曲書いてますか?」と訊いてきたという。それというのも、デビューしたら曲を書く時間がなくなるとの理由からだった。「気づいたらアルバム制作に曲が追いつかなくなって、書けないし、曲もできないし、CDも出せないしっていう悪循環のもと、アーティストは消えていくんだよ」とかなりシビアな話も聞かされたらしい(aiko『aiko bon』ソニー・マガジンズ、2005年)。 おかげで彼女は日頃から曲を書くことを心がけるようになった。それが1997年末より半年あまりのインディーズ時代を経て、メジャーデビューしてからもずっと続いているというわけである。 彼女の曲の大半はラブソングで、それらの詞はすべて自身の経験と妄想がベースになっていると、彼女はことあるごとに語ってきた。ただ、ときには思いがけない出来事が動機となって曲を書くこともあったようだ。
「テレビいっぱい出ろとか言うのやめてください」副社長にぶつけた言葉
たとえば、2001年、NHKホールでライブがあった日のこと。このとき彼女はドラマの主題歌のオファーを受け、ちょっと切羽詰まっていたらしい。終演後、スタッフらと焼肉を食べに行くと、ちょうどレコード会社の副社長が来ていたので色々と話をするうちについ、「あたしたちはこうやって頑張ってきてるし、できれば音楽をずーっとやっていきたいんです。だからスポット打てとかテレビいっぱい出ろとか言うのやめてください」とぶつけてしまった。すると副社長は「汗ブワッとかなって」(aikoによる表現)、いつもは信頼を置いているスタッフも全員下を向いてしまい、彼女はショックを受ける。《それでガビーン、って家に帰って『見返してやれ!』くらいの気持ちで一気に5曲》書いたという(『ロッキング・オン・ジャパン』2002年5月25日号)。
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