わが子が分別のつかない「鬼」になる…スポーツ指導者の暴力・暴言で"壊れた子供たち"の悲惨な結末
■暴力を是とするスポーツ環境の落とし穴 困難な状況に陥っても現状を冷静に分析し、ありったけの知識と経験を振り絞り、思考を重ねることによって解決策を探る。たっぷり時間をかけて納得に至るまでの理路を自前で構築する。これができる人を形容して「胆力がある」という。スポーツだけでなく人生の荒波を生き抜くために不可欠なのは、この「胆力」である。 暴力行為が伴うほどの理不尽な指導の下では、この「胆力」が育たない。どれだけ自分で考えても頭ごなしに否定されるなかでは、「鬼」のようなタフさは身に付いても「胆力」は身に付かない。 ここがポイントである。「鬼」も「胆力のある人」も、ともに少々の困難にはへこたれないタフさを備えているが、その内実は180度異なるのである。 過度な上下関係も含み、暴力的な指導が醸成する厳しさを是とするスポーツ環境には、ここに大きな落とし穴がある。 ■人生という長いスパンでスポーツの効果を見てほしい スポーツに励む子供を持つ親に私が言いたいのは、子供を「鬼」にしてしまっていいのかということである。 全国大会の常連である強豪校などでは、厳しい指導の下で実績を上げていると反論する向きもあろう。結果が伴っている以上、この言い分をすんなりとは受け入れられないと思う人もいるかもしれない。 だが、先の元主将を挙げるまでもなく強豪校出身の選手の何人が次のステージで活躍しているかは、甚だ疑わしい。小学校から中学校、中学から高校、高校から大学、大学から社会人へと進むなかで継続的に競技を続け、競技能力の向上と人間的な成長を続けられる選手は、どれほどいるだろう。 そもそもトッププレーヤーになる人はどんな環境であっても育つ。もともとの素質の高さに加え、指導者の「特別扱い」の下で理不尽な指導を受けるという憂き目に遭わずに済むからだ。あるいは、そうした指導者がいるチームからは早々に立ち去っていると思われる。裏を返せばトッププレーヤーは、「ぶっきらぼうな指導」の悪影響を最小限にとどめられたからこそ、その潜在能力が開花したといっていい。 つまり暴力行為を伴う指導は、おもにミスをしたり意欲が低いと見受けられる子供に向けて為される。競技力が飛び抜け、素直な性格で実直に練習に取り組む子供に向けられることはまずない。だからスポーツに励む大半の子供が苦しんでいると考えて差し支えない。 これを踏まえて、悩める親に私が提案したいのは、全国大会に出場するなど短期的な結果のみでその指導が適切かどうかを判断するのではなく、人生という長いスパンでその効果をみることである。子供が次のステージに進んだとき、あるいは引退後のセカンドキャリアを見据えて、その指導の教育的効果を考えてもらいたい。