「“オメガトライブの杉山さん”に悩んだ」杉山清貴、挫折と葛藤を乗り越えた「僕らの音」
ツアーの途中でオメガトライブを脱退
解散に全面的に賛成したのは吉田だった。そして、正式な解散を待たず、ツアーの途中でオメガトライブを脱退した。 「この状態でオメガを続けていたら絶対に衝突もあるだろうし、メンバーの間に亀裂が入るのがイヤだったんです」(吉田) 反対していたメンバーも、話し合ううちに解散が前向きな選択でもあると考えるようになったと杉山は言う。 「当時、僕らは25、26歳でした。30歳という区切りを見据えたときに、あと4、5年ある。その間に、例えば作曲家になりたければ作曲の勉強をしようよ、プロデューサーになりたければプロデュースの勉強をしようよ、音楽の世界で生きていくなら、30歳までに生き方を決めたいよねって。そんなもっともらしい話をしたことを覚えています」 解散の申し出を、藤田氏をはじめとするプロジェクトの関係者は当然のごとく引き留めた。しかし、ひと足早い吉田の脱退がメンバーの固い意思表示となって大人たちの決定を動かした。
売れなければ自己責任のソロデビュー
デビューから2年8か月。杉山清貴&オメガトライブは'85年12月24日に解散。 「短かったとも長かったとも思いませんけれども、アルバム5枚、シングル7枚、53曲も発表したんですから、めっちゃ濃かったですよね。もう十分やった、これからは新しいバンドでも組んで、30歳までに何かできればいいかなって思ってたんですけど……。レコード会社から連絡が来て、“杉山君、来年はソロデビューだよ”と言われたときは、“はぁ!?”ですよね。勝手に解散したんだからケツ拭きなさいよ、みたいな(笑)」 プロジェクトとの「契約」は残っていた。杉山はシンガー・ソングライターとして、ほかのメンバーは新ボーカルにカルロス・トシキを起用した1986オメガトライブとして活動していくことになる。 「今度は売れなかったら全部自分の責任ですからね。なかなか曲が書けずにいたら、藤田さんから連絡があってカルロスの『君は1000%』を聴かされたんです。“こっちはできたぞ、おまえはどうなってんだ?”と強烈なプレッシャーをかけられた(笑)。 だけど、あの時は曲作りの苦しさと同時に、初めて楽しさも知った。オメガトライブの一員として林さんと康さんの曲を歌わせてもらっているうちに、全体的なアレンジなども頭に浮かべながら、大人の曲が書けるようになったのかなという気がします」 '86年5月、杉山はソロデビュー曲『さよならのオーシャン』をリリース。この曲をプロジェクトの外から聴いた印象を、吉田はこう述べる。 「杉山君が持っているアメリカの西海岸的なテイストが加わって、彼が本当にやりたかった音楽に一歩近づいたなと感じましたね」 '87年5月、ソロ3作目の『水の中のAnswer』はオリコンチャートで1位に輝いた。そして、サポートメンバーに椎野を迎えてライブで共演する機会も巡ってきた。 「会場に杉山のお母さんも来ていて、久しぶりにお話ししたんです。そのときに、“清貴が美大に行かずに音楽の世界で生きていくと言ったときは椎野君を恨んだけれど、今は感謝してるわよ”って言ってもらって。うれしかったですね」(椎野)