「“オメガトライブの杉山さん”に悩んだ」杉山清貴、挫折と葛藤を乗り越えた「僕らの音」
藤田氏がプロデュースバンドのコンセプト
藤田氏がプロデュースしようとしていたバンドには明確なコンセプトがあった。楽曲は都会的な大人のロック。いわゆるAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)で、作曲は林哲司、作詞は康珍化というヒットメーカーがデビュー曲を手がけることが織り込まれていた。 「本来ならきゅうてぃぱんちょすのオリジナル曲でデビューしたかったんですけど、林さんは『真夜中のドア』の作曲家、康さんは『バスルームから愛をこめて』の作詞家ですから、“絶対いい曲に決まってんじゃん!”って思いましたよね。それに、僕らだけではAORをつくるには力量が足りないとわかっていましたから、もうこっちから飛びついたような感じでした」 杉山の頭には、高校卒業後に新たなバンドを立ち上げて一足先にプロのドラマーとして活躍していた椎野の顔も浮かんだに違いない。 「僕のほうが先にライブハウスを卒業したというか、『バスルームから愛をこめて』でデビューした山下久美子さんや、吉川晃司さんなどのサポートメンバーとして、すでにプロの道を歩んでいましたから、杉山には“なにくそ”っていう思いも少しはあったんじゃないかな」(椎野) 共に追い続けてきた夢に、杉山もようやく手が届こうとしていた。だが、心の中には葛藤もあった。 「醒めていないと、あのデビューの仕方はできなかったと思いますよ」(杉山)
寝耳に水のバンド名にささやかな抵抗
杉山たちは困惑した。提示されたバンド名は“オメガトライブ”。名付け親は、藤田氏と親しかったハワイのカリスマDJ、カマサミ・コング。ギリシャ文字のΩには「最後・究極」という意味がある。TRIBEは「種族・人類」などと訳される。耳慣れないバンド名はメンバーたちにも抵抗があった。吉田は言う。 「きゅうてぃぱんちょすじゃマズいから、メンバーたちで考えて“ラグーン”に改名したんですよ。そしたら、いきなり事務所に呼ばれてオメガトライブに決まったと。本当に寝耳に水でしたね」 “オメガトライブ”はプロジェクトの名称ともいえた。杉山たちはプロデューサーの藤田氏が求める作品の表現者であり、創造者ではなかった。詞や曲だけでなく、音作りには超一流のスペシャリストが参加。レコーディングでの演奏はプロのスタジオミュージシャンが担った。 「自分たちで演奏できないのはショックでした。やらせてほしいと抵抗もしたんです。だけど、実際にスタジオミュージシャンの方々の演奏を聴いたら、自分たちとのレベルの差が歴然で、鼻をへし折られた気分でした」(吉田) ヴォーカルに杉山の代役はいない。とはいえ、杉山も自由に歌えたわけではなかった。 「僕のロックヴォーカルに対して、藤田さんは“声を張るな、抑えろ”と。発声だけでなく、“君が好き”という歌詞があったら、“どういう気持ちなんだ、好きにもいろいろあるだろう?”とか、“この水は甘いって表現しろ”とか、無理難題ばかりで。1行歌うだけで1日が終わったこともあった。あの当時の音源を今聴くと、自分がふてくされて歌っているのがわかりますよ(笑)」 プロジェクトを成功させるための大人の采配。それを受け入れ、自らの欲求は封印した。結果的に、プロのミュージシャンとしてメンバーたちは磨かれていく。成長の実感があったと吉田は言う。 「コンサートになれば、スタジオミュージシャンの手を借りるわけにはいかないじゃないですか。“レコードと違う”とは絶対に思われたくないですから、音源を忠実に再現できるように、メンバー全員が寝る間も惜しんで猛練習しました」 レベルアップは杉山も同様だった。 「ふてくされながらも、藤田さんの要求を理解しようと歌っているうちにテクニックや表現力が身について、それが自分の個性になって……。そう気づいたのは、大人になってからですけどね(笑)」 '83年4月。プロジェクトは満を持してデビューシングル『SUMMER SUSPICION』をリリース。メンバーたちにとって想定外だったのはバンド名だった。藤田氏の一存で、“杉山清貴&オメガトライブ”に変更されていた。 「杉山君本人がいちばんイヤだったと思います。デビューが決まって、テレビ局やラジオ局に挨拶に行っても、杉山君は“オメガトライブです”って自己紹介するんです。ファーストツアーを組んだときも、自分から“杉山清貴&”と言ったことは一度もないんですよ」(吉田) 大人の采配に対する杉山のささやかな抵抗だった。とはいえ、デビュー曲がヒットする一方で、バンド名はしばしば“オメガドライブ”と間違われた。プロジェクトを売り出す商標として杉山清貴の名を冠したのは、藤田氏の卓見であった。 杉山は苦笑する。 「大人の言うことは聞いとけってことですよね(笑)」