なぜ高田延彦は“因縁”の柔術を始めヒクソンを師と仰ぐようになったのか 1週間指導受け「すべて素晴らしかった」
元格闘家でタレントの高田延彦(62)が、9月に柔術家としてデビューした。2018年からライフワークとして取り組み、今月4日には柔術家のヒクソン・グレイシーから茶帯を授与されている。かつて2度にわたるヒクソンとの総合格闘技戦で“プロレス神話”を崩壊させた戦犯と呼ばれ、自らの人生を暗転させた柔術が、還暦を超えて光となる運命の数奇。柔術との出会い、試合直前に手術した病気との向き合い方、米国デビューを目指す現在を聞いた。 【写真】ヒクソン・グレイシーから茶帯を贈られる高田延彦 ホテルのラウンジに現れた高田は、精気に満ちあふれていた。「なんでも聞いてよ!この取材の前も練習してきたんだよ!」。炭酸水を注文したので、オシャレなものを飲むものだなぁと感心していたら「コーヒーが好きなんだけどさ、医者に止められててね」と豪快に笑った。 2002年の現役引退後は、趣味でも自ら格闘技をすることはなかった。筋トレは続けていたが、18年に心境が変化。かつて苦渋を味わった柔術を始めた。自ら道場を電話予約し、始めてみたらどっぷりとハマった。 週3~4回のトレーニングを続け、22年9月の世界大会に出場しようと画策していた矢先、同年8月に「発作性心房細動」を発症した。不整脈の一種で、心臓のリズムが不規則になってしまう。 「症状が収まる期間もあるんだけど、前触れなくキツくなるんだよね。ふらついたり、精神的な不安もある。長いときは朝から晩まで続くからね。ものすごい恐怖だよ」 投薬を続けたが、23年も病気への不安がぬぐえず試合は断念。今年は医者と相談し、9月27日の試合に向けて手術を決断した。「『大会に出る』っていう起爆剤というかね、劇的なきっかけがないと手術は無理だと思ったから」。柔術が背中を押してくれた。 試合は愛知県で開催された「Sjjif World Jiu Jitsu Championship 2024」。マスター7紫帯ヘビー級に出場した。「会場は4日間で4000人以上参加しているから、人の多さでぐっちゃぐちゃなわけよ。みんなと同じところで着替えて、出番が迫る中で一人でテーピングして、気づいたらマットに上がってたね」。米国のスティーブン・スミス選手とのワンマッチを制し、世界王者となった。 今年1月、ヒクソン・グレイシーと再会を果たした。ヒクソンから黒帯を授与されているアラバンカ柔術の山田重孝氏と親交があり、合同稽古を提案された。 「『せっかく柔術を始めたんだから(ヒクソン)先生から帯もらおうよ』って言われてね」。アメリカの道場を訪れ、指導を受ける。「すべてが素晴らしかった。パッションも、教え方もわかりやすくて。2時間、3時間やっても『もう終わり?』ってくらいで、あっという間」。1週間が瞬く間に過ぎていった。 1997年10月、プロレスラーだった高田は東京ドームでヒクソンと対決した。1R4分47秒、腕ひしぎ十字固めで一本負け。完敗だった。プロレスファンの失望を招き、マスコミからは大バッシングを浴びた。 翌98年10月に再び東京ドームで相まみえるも結果は同じ。1R9分30秒、腕ひしぎ十字固めに屈する。「2回逆十字取られたけど、魔法みたいだった。やっぱりミスターヒクソンの特別な動きだよね」。かつて自らを翻弄(ほんろう)した技にどれだけの技術が凝縮されていたか、今だから分かる。 山田氏からも“ヒクソン伝説”を聞き「もうめちゃくちゃだもん。数百人の黒帯相手に1人1人スパーリングして、1対300~400人を全部1本勝ち。スケールも桁も違うよね。それを言ってくれてたら(試合)やってないって」と笑う。 世紀の一戦で対峙(たいじ)した柔術を学び、現実を突きつけたヒクソンを師と仰ぐ。不思議な縁に導かれ、還暦を過ぎてなお、高田の人生が躍動している。 「こんな素晴らしい道があったなんて知らなかったから。ミスターヒクソンは私にとって人生最後の先生。来年63ですからね。丁寧に身体をケアしながら、スキルアップして、もし順調にいけば来年はベガス(の大会)に行きたいね」 米国デビューを視野に、高田は今日もトレーニングに出かけていく。 ◆高田延彦(たかだ・のぶひこ)1962年4月12日生まれ。神奈川県出身。80年、新日本プロレス入門。81年、デビュー。96年に第18代IWGPヘビー級王者となる。UWFインターナショナルを経て、PRIDEに参戦し、2002年引退。以降、PRIDE統括本部長として「男の中の男たち、出てこいやーっ!」などの名台詞で大会を盛り上げた。映画「大名倒産」(23年公開)に出演するなど俳優としても活躍。妻はタレントの向井亜紀。