ノートルダム大聖堂、復活への軌跡。中世の技を受け継いだ職人たちの挑戦
2019年、ノートルダム大聖堂が 大規模な火災に見舞われた。 この象徴的な建造物を蘇らせるべく、 職人たちは何世紀も前の技術に立ち返り、 手作業でノートルダムを修復していった。 【写真を見る】800年前の大工たちの技術を受け継ぎながら、再建されるノートルダム大聖堂。
2019年4月15日の夕刻、レミ・フロモンはパリのモンパルナスにある賑やかなカフェ、ブラッスリー・サンマロでくつろいでいた。その時、電話が鳴った。 「ノートルダムが燃えている」と、電話越しに友人が言った。フランス文化省の歴史的記念物主任建築家を務めるフロモンは、この一報を冗談かと思ったが、相手の真剣な様子に事の重大さを直感し、椅子から飛び上がった。そして、すぐに自転車に乗り、大聖堂へ向かって北へと急いだ。 フロモンは、ほっそりとした46歳の優雅な男性で、茶色の巻き毛に縁取られた愛らしい顔立ちをしている。パリ近郊のヴァンセンヌで生まれた彼は、国家的に重要な建造物の修復を数多く手がけ、中世ヨーロッパを象徴するノートルダム大聖堂の細部に至るまで精通していた。ノートルダムは、一度火災が発生すれば瞬く間に燃え広がる危険性があり、もしそれが制御不能となれば、結果は壊滅的なものになることを彼は深く理解していた。 ◾️炎に包まれた“フランスの魂” 15分後、フロモンはシテ島にあるノートルダム大聖堂へと到着した。鉛板葺きの屋根からは煙が立ちのぼり、1859年にフランスの建築家、ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュクによって追加された高さ約91メートルを超える尖塔が、不気味な赤い光に包まれつつあった。しかし、さらに危険にさらされていたのはその尖塔の下に広がる部分であった。そこには「ラ・フォレ(森)」と呼ばれる中世につくられたオーク材の屋根の骨組みがあり、全長約91メートル、高さ約9.1メートルにもおよぶ複雑な構造が隠されていたのだ。 数分前に現場に到着していた同僚がフロモンに歩み寄った。古い木材がいかに燃えやすいかを熟知している彼は「ラ・フォレはもう終わりだ」と告げた。 すでに数百人の消防士が火災の食い止めに奮闘していたが、ある消防士はフロモンに、石灰岩でできた天井を支えるアーチ型天井(ヴォールト)が崩落する危険性を懸念していると伝えた。それが現実となれば、大聖堂全体が崩壊する可能性がある。 フロモンは、フランス各地のゴシック様式の大聖堂が2度の世界大戦中の激しい爆撃にも耐え抜いたことを知っていた。「当時、大聖堂の内部はすべて破壊されましたが、高い壁は残りました」と彼は説明し、より重大な懸念を消防士たちに伝えた。それは、西側のファサードにある南塔の2つの鐘のことだ。もし火がそこにまで達すれば、重さ約14トンの青銅の鐘が落下し、壁を破壊するだけでなく、教会内で作業中の消防士たちに甚大な被害をもたらす恐れがあった。 到着から約1時間後、フロモンは数千人のパリ市民と世界中の何百万人もの視線が注がれるなか、重さ750トンの尖塔が燃え上がる光景を見つめていた。1,230本のオーク材で支えられたその尖塔は、炎に包まれ、ぐらつきながら、まるでマッチ棒のように折れて屋根を貫き、崩れ落ちた。その瞬間、現場にいた人々の目には、信じがたい現実に直面した恐怖と悲しみの涙があふれていた。 やがて、「ラ・フォレ」も炎にのみこまれてしまった。炎が格子状の梁を駆け巡り、800年の歴史を持つオーク材が次々と灰と化していった。梁や垂木が音を上げながら燃え、アーチ型天井に崩れ落ちたが、幸いにもそのほとんどが落ちてくる木材の重さに耐え得る強度をもっていた。「数時間のうちに何もかも失われてしまいました」とフロモンは話す。彼は、その夜の2時まで現場に留まり、目の前で起きた出来事を信じられず、ただ茫然と立ち尽くしていた。 多くの人々にとって、ノートルダム大聖堂はフランスの魂そのものであり、永久に国の象徴でありつづけるはずだった。ヴィクトル・ユゴーの小説『ノートル=ダム・ド・パリ』の舞台となり、ナポレオンがフランス革命の混乱から保護し、1804年に皇帝として戴冠した場所でもある。また、シャルル・ド・ゴールが1944年にパリ解放を祝う礼拝を行ったのもこの大聖堂であった。年間1,000万人以上が訪れていた世界有数の観光地であったが、今やそのノートルダムは、黒焦げの廃墟と化してしまったのである。 ◾️大聖堂再建チームの結成 火災の翌日、フランスのマクロン大統領は「ノートルダム大聖堂を5年以内に再建する」との決意表明をした。これに続き、高級ラグジュアリー・グループの富豪、フランソワ=アンリ・ピノーとベルナール・アルノーが、合計3億3,900万ドルの寄付を発表した。さらに、『ニューヨーク・タイムズ』によれば、火災直後の数日間で9億5,000万ドル以上の寄付が集まったという。政府は再建プロジェクトを管理するために公的機関「ノートルダム大聖堂を再建する(Rebâtir Notre-Dame de Paris)」を設立し、元フランス陸軍大将でレジオン・ドヌール勲章の大宰相を務めたジャン=ルイ・ジョルグランを理事長に任命した。 フランスの歴史的記念物主任建築家である61歳のフィリップ・ヴィルヌーヴが修復を監督することになり、フロモンもチームに加わることになった。火災が鎮火した後、教会の関係者やエンジニア、建築専門家たちは、損害状況の詳細な調査に着手した。ノートルダム大聖堂は1160年に当時のパリ司教モーリス・ド・シュリーの指導のもと計画され、完成までにほぼ200年を要した。 この大聖堂は、空高く伸びるアーチ型天井や、複数のアーチが交差する装飾的な天井、ステンドグラスの窓、飛び梁、そして光に包まれた身廊(信者が座る中央部)やクワイヤ(聖地エルサレムがある東を向いて聖職者が座る場所)など、当時としては革新的なゴシック建築様式の典型を示していた。火元はいまだ調査中だが、火災発生からの数日間で調査員はおそらく電気ショートを原因に尖塔で始まったのではないかと推測した。 尖塔が崩れた際に身廊のアーチ型天井の一部を壊し、屋根に穴を開けた。その夜、北翼廊も崩壊した。しかし、貴重な絵画や彫刻、教会の内部を飾った窓は煙で汚れたり表面が焦げたりはしたものの、一つたりとも修復不可能なまでには破損しなかった。 屋根の骨組みも貴重なものだった。フランス語で「シャルパント(charpente)」と呼ばれる小屋組み(屋根の骨組み)は巧妙な構造で、三角形のトラスで構成されていた。水平材や垂直材、斜めの垂木が組み合わさって重い屋根を支え、重量を壁に均等に分散させる設計だった。数千本の木材を釘を用いずに組み立てられたシャルパントは、卓越した技術の結晶であり、世界でも最も古い純木造の構造物のひとつだと見られていた。しかし、今やそれも、ヴィオレ・ル・デュクの尖塔も、消え去ってしまった。 神聖なるノートルダム大聖堂の再建方法について、ただちに熱心な議論が巻き起こった。この感情的な論争は、フロモンに9.11のグラウンド・ゼロでの議論を連想させた。火災によって人命が失われることはなかったものの、フランス人にとって文化遺産や伝統の重要性は変わらず、その問題の緊急性も同様に高かった。 「ひとつの提案として、完全にそのまま、手を加えずに残すという意見がありました」とフロモンは述べた。「しかし、それでは意味がありませんでした。ノートルダムは生きた教会であり、再建が不可欠だったのです」 しかし一部では、損傷した部分を現代の耐火材料を用いて再建すべきだとの意見も浮上した。第一次世界大戦中にドイツ軍の砲弾によって焦げた木材と瓦礫となったゴシック建築の名作、ランスのノートルダム大聖堂では、1919年に建築家アンリ・ドゥヌーが強化コンクリートで屋根を再建し、この決定も当時大きな議論を呼んだ。 フロモンはドゥヌーの手法に賛同していなかった。彼は、中世の大工たちが用いた方法でシャルパントを再建すべきだと考えていた。フロモンも、この方法に一定のリスクがあることを理解しており、「木材は燃えやすい」という現実を率直に認めていた。だが彼は、その脆弱性を軽減するための対策を講じることは可能だと信じていた。実際フロモンは、大聖堂再生の鍵となる知見の持ち主だった。 ◾️ラ・フォレ修復の道しるべ ノートルダム大聖堂を建てた中世の職人たちは、現代ではほとんど失われた高度な技術を持っていた。鍛冶屋は斧を鍛え、伐採者は木を角材に削り、大工たちは釘やネジを使わずに木材を組み立てた。石工たちはパリ近郊の採石場から石灰岩を切り出し、馬車で首都まで運んだ。林業労働者は、森の中から最もまっすぐで強いオークの木を選び、鋼鉄の斧で伐採した。木材や石を吊り上げるには、枝で作ったロープや足場が使われた。 シャルパントは、おそらく中世の職人たちの最大の業績であった。しかし、フロモンによると、それについての学術研究はこれまでほとんど行われてこなかった。屋根の構造は見えづらく、立ち入ることも困難であったため、学者たちは主にノートルダムのガーゴイルや石灰岩のアーチ、飛び梁といった、より顕著で華々しい遺産に焦点を当ててきた。 フロモンによれば、19世紀にはシャルパントに関するスケッチがいくつか存在しており、なかにはヴィオレ・ル・デュクによるものも含まれていたが、それらは一貫性がなく、実際の状態を正確に記録していなかったと指摘されている。中世の屋根構造と使用された木材が樹木年輪の専門家たちによって分析されたのは、それから約150年後のことであった。 2012年、当時35歳で、修復建築家を養成するパリのエコール・ド・シャイヨに在籍していたフロモンは、未解明の領域を探求することを決意した。そして、上級学位の取得のために大聖堂のシャルパントを1年間かけて徹底的に調査することに挑戦しようとしていた。調査の許可が下りると、彼はプロジェクトパートナーのセドリック・トロントゾと共に、大聖堂の南翼廊から螺旋階段を上り、南側の破風にある狭い開口部を抜けて、800年以上もの間、ほとんど人が立ち入ることのなかった中世の空間へと足を踏み入れた。 彼らは即座に暗闇に包まれた。古びたオークのかび臭い香りが漂うなか、フロモンはその空気を深く吸い込み、発見の喜びに浸っていた。身廊の上には、縦横斜めに配置された多くの梁や支柱で強化された、見事な左右対称のオーク材の三角形が連なり、同様の構造がクワイヤの天井面にも広がっていた。 教会の東端に位置する湾曲した後陣の上では、湾曲したオークの梁が集まり、一種のテントのような形をなしていた。この精緻な工法について、あるフランスの研究者は「当時の最も革新的で重要な大工棟梁による傑作」と称賛している。 その翌年、フロモンとトロントゾは、毎週ラ・フォレへ足を運んだ。冬は震えながら、夏は汗をかきながら、朝から晩まで、細部に至るまで注意深く作業を進めた。写真を撮り、レーザーで測定を行い、建設当初からの修理や改造の跡を記録した。それぞれの木材の小さな違いや、何世紀も前に労働者が角材に使用した斧の刃の跡を書き留めた。そしてフロモンは、大工が各トラスにイニシャルやローマ数字を刻んでいたことに気づいた。これをもとに、ラ・フォレの驚異的な建造過程を時系列に沿って解き明かすことができた。 2人はこのプロジェクトを通じて、800年の歴史を持つ構造物の最も精緻な設計図を完成させた。「量は決して多くはありませんでしたが、内容としては十分なものでした」とフロモンは語り、オフィスの壁に磁石で留められた図面のいくつかを示してくれた。その図面は、10年後にノートルダム大聖堂再生の道しるべとなるものであった。 ◾️中世の技術を現代につなぐ 火災から数カ月が経っても、廃墟と化した大聖堂にはまだ煙の匂いが残っていた。現場の安全チームは建物を巡回しながら、鉛の汚染レベルを測定し、損傷した彫刻や絵画を慎重に取り外していた。その間、フロモンは別の重要な課題に集中する必要があった。元の姿を再現することは果たして可能なのかという懐疑的な意見もあったが、フロモンは、フランスの伝統的な大工技術の専門家であるフランソワ・カラームの協力を得ることができた。 1990年代初頭、若き日のカラームは、西部ルーマニアの僻地であるマラムレシュを訪れたことがあった。その地域は、ニコラエ・チャウシェスクの24年におよぶ独裁政権の間も、急速に変化する周りの社会から隔絶されており、職人たちは古い大工技術を守り続けていた。ルーマニアと同じく、伝統的なフランスの職人たちも手工具を使っていた。 たとえば、ハッシュ・ド・グロシエール(hache de grossière)は長い柄に狭い刃で、大きな木材を削り取るのに使用された。ドロワール(doloire)は広い刃と短い柄を持ち、木の木目に沿って精密な作業を行えるように工夫されていた。手工具を使った作業は非常に時間がかかり、職人の体力も要求される。木材を手作業で角材にするには、電気丸のこを使うよりもずっと多くの時間がかかるため、20世紀には建設現場での斧の使用はほとんど見られなくなった。 それでも、斧派の人たちは、斧で作られるしなやかで強い梁を高く評価し、手作業で木材に込められた労力や職人の技が、不完全さをむしろ魅力にしていると考える。「これは魔法のような作業です。素材を直接感じることができるから」とフロモンは語り、続ける。「その匂いを嗅ぎ、手で触れることで、素材と深い結びつきをもつことができるのです」 カラームは、十字軍や中世の農奴が使っていたドロワールの世界的権威となった。完璧な斧を追い求めて東欧を旅しながら、彼は切削刃の形状や鋼の種類、柄の曲線に見られる違いを深く味わっていた。1992年には、世界中で建設活動を行う職人たちの協会「国境なき大工団(Carpenters Without Borders)」を設立した。彼らは、新たに伐採された木材と斧を駆使し、ルーマニアで鍛冶場や八角形の井戸を建設し、中国で家を建て、米メイン州の田舎で鍛冶屋の工房を立ち上げた。 カラームによると、ルーマニアの職人たちは新しく伐採された木材だけを使っていた。現代の建設業者は生木を避ける傾向があるが、それは生木が曲がりやすく、乾燥中に体積が減少するためである。したがって現在は、木材を乾燥させてから使用するのが一般的だ。一方、伝統的な職人たちは、生木の柔軟性が手工具に適しており、より丈夫なものがつくれると考えている。 フロモンは、ノートルダム大聖堂の中世の大工たちが生木を使っていたことを示す木目の痕跡を発見しており、その建物はほぼ1,000年にわたって持ちこたえている。カラームの始めた運動が、今や世界的に有名なこの大聖堂の再生において、重要な使命を果たすことになるのだ。 2020年、ノルマンディー沿岸の18世紀の城の芝生の上に、「国境なき大工団」はノートルダム大聖堂の関係者に対してモックアップをつくった。25人のボランティア大工が、特に複雑で技術的に難しい構造をもつ大聖堂の中央部分にある7番トラスを組み立てた。レプリカは完成後、地面から持ち上げられ、大聖堂での姿が再現された。 「彼らは手作業でも十分に施工でき、費用と時間もそれほどかからないことを証明しました」とフロモンは述べた(現代的な工夫として、丸太の4面のうち2面のみ電気丸のこで仕上げていた)。当時ジョルグランの下で副局長を務めていたエンジニアのフィリップ・ジョストにとって、そのモックアップはフロモンの方針が正しいことを確信させるものだった。「大聖堂は本来の姿を保つのが最良である」とジョストは述べた。「オーク材や石などの純粋な素材……かつての大聖堂の姿に捧げる敬意のなかにこそ、真理は息づいているのです」 昔ながらの手法で再建されるのは、シャルパントだけではなかった。火災で460トンの鉛が溶け出し、パリの街中に有毒な粒子が広がり、あらゆる公園や道、建物を汚染していったが、中世の職人たちも知っていたように、鉛は柔軟で耐久性があり、強風にも耐えられる。現在、鉛の使用はフランスでは規制されているが、再建にあたり特別な許可が下り、鉛で覆われたヴィオレ・ル・デュクの尖塔が再び教会の上にそびえ立つことになる。 フロモンがシャルパントの支援を募っていたまさにその時、新型コロナウイルス感染症という厳しい試練がマクロン大統領の5カ年計画に暗い影を落とした。2020年春、パンデミックの影響で大聖堂内の作業はすべて一時中断されるかと思われた。しかし、安全対策の見直しが施され、約1,000人の職人たちが活動を再開した。石工や絵画修復者、金属工、ガラス工、オルガン修理士、木工職人たちは、約40枚のステンドグラス窓や8,000本のパイプを持つ巨大オルガン、23枚の絵画、約300メートルにおよぶ金属細工、そして54体のグロテスクな石像群(あの有名なガーゴイルも含む)を丁寧に清掃し、修復した。 崩落したアーチ型天井は再建する必要があった。尖塔を再建する契約は、歴史的建造物の修築を専門とする4つのアトリエ(Les Bras Frères、Asselin、Cruard Charpente、MdB Métiers du Bois)が勝ち取っていた。 ◾️小さな村の工房の大工 ロイック・デモンは、ラ・フォレを復活させるという夢をもっていた。彼と父親のレミーは、ノルマンディー地方の村であるナッサンドル・シュル・リスルで、アトリエ・デモン(Ateliers Desmonts)という小さな工房を営んでいる。工房の周りには小麦や甜菜、亜麻の畑が広がっている。 2011年、レミーは田舎で中世の納屋を修復していた「国境なき大工団」のチームと出会った。ロイックは当時12歳で、父親に現場を見に行くよう言われたことを覚えている。「新しい木の香りや鍛冶場の煙の匂いがして、世界中から集まった40人の大工が、いろんな言葉を話しながら作業しているのを見るのは、本当に驚きだった」とロイックは語っている。 次の10年間で、アトリエ・デモンはカラームが影響を与えたフランスの小規模ながらも成長著しい、「国境なき大工団」運動のリーダーとなった。伝統主義者たちは、電動ノコギリや機械加工された左右対称な木材、接着剤や金属プレートで固定された垂木を使う現代建築が、木工の魂を失わせていると主張していた。 「あらかじめカットされた木材にネジを打ち込むだけで、木の出どころすらわからないでしょう」と25歳のロイックは納屋のような彼の工場で語った。がっちりとした体格で、茶色の髪にひげをたくわえた彼は、自らの使命に熱意を持って取り組んでいた。昔ながらの方法とは、森に出かけ、ラ・フォレで必要な梁の長さや直径に合う木を探し、手作業で木材を加工することだった。 「ノートルダム大聖堂を再建する」がラ・フォレの再建案を募集したとき、アトリエ・デモンは自分たちがその契約を取れる可能性は低いと思っていた。小規模な家族経営の彼らの会社が、業界の大手企業とどう競争できるだろう?と。 「契約を勝ち取れるなんて考えてもいませんでした」とロイック。しかし、公的機関「ノートルダム大聖堂を再建する」が伝統的な手法を追求する上で、彼らは自分たちの技術がこのプロジェクトに最適であると考えていた。「私たちはこう言いました。『この仕事ができるのは私たちだけです。関係者も全員知っているし、この仕事を夢見てきました。彼らも私たちを待っているでしょう』」 業界の大手企業の一つにアトリエ・ペロー(Ateliers Perrault)がある。1760年に設立され、アンジュー地方のサン・ローラン・ド・ラ・プレーンに拠点を置くこのアトリエは、170人の従業員を抱え、数々の歴史的建造物のプロジェクトを手がけてきた。 アトリエ・デモンのほうは、両社が協力すれば成功するパートナーシップが築けると考え、アトリエ・ペローの技術ディレクターであるジャン=ルイ・ビデに連絡した。「実際に顔を合わせ、共に仕事をすることを決めました」とビデは語った。「私たちは大規模な木造骨組みの設計と彫刻に精通していて、彼らは斧を用いた木材加工の技術をもっているからです」 2022年7月、「ノートルダム大聖堂を再建する」が入札結果を発表した。選ばれたのはアトリエ・ペローとアトリエ・デモンである。ロイックは興奮していた。10年以上も無名のままで活動してきた彼の小さな工房が、ついに世界で最も注目される修復プロジェクトに取り組むことになったのである。 同年8月、彼らは修復に適した樹木の選定を始めた。中世以来、林業は大きく変わった。かつては斧で伐採していたが、今ではチェーンソーが主流となっている。昔、木は特定の季節、たとえば比較的樹液が少なく木が軽い冬に伐採するべきだとされていたが、現在では季節に関係なく伐採が行われている。 ロイックのガールフレンドで農業技術者のルー・カロイは、ノルマンディーやロワール渓谷の森林保護区を訪れ、適切な材木を探し回った。伐採者たちは、80年から150年の樹齢で約18メートルの高さに達するオークの木1,200本を伐採し、そのなかには身廊とクワイヤのために必要な珍しい形の木も含まれていた。 「オリジナルのフレームと同じような完璧な曲線をもつ木を見つけなければなりませんでした」とビデは説明した。2つのアトリエは作業を分担した。アトリエ・ペローがクワイヤを担当し、アトリエ・デモンが身廊を担当することとなった。 「ジャン=ルイ(・ビデ)との話し合いはかなり難しいものでした」とロイックは、彼らの工房から少し離れたハルクールという村にあるレストランで、ステーキとフライドポテトをランチに食べながら話した。「彼らは通常のやり方を重視していて、私たちは伝統を守ろうとしていました」とロイックは続けた。 初めのうち、アトリエ・ペローは大きな機械でまっすぐな木材を切り、外側の樹皮を削って硬い心材に到達するという現代の手法を採用していたが、ロイックはそれを「過剰に削りすぎて木材を無駄にしている」と感じていた。ロイックはできるだけ若く、柔らかい、外側の樹皮を残すよう心がけた。両アトリエは互いのアプローチを交ぜた手法を採用し、ロイックは必要な材料と職人たちを集めるという大役を担った。 ◾️世界から集まった仲間たち 2022年末、ロイックは「国境なき大工団」で出会った人々に大量のメールやWhatsAppメッセージを送信した。その呼びかけに応じたのは、フランス、アメリカ、アルゼンチン、スペイン、イタリア、イギリス、リトアニアから集まった55人の男性職人と5人の女性職人である。 ロイックによれば、そのうち30人がアトリエ・ペローに、残りの30人がアトリエ・デモンがあるナッサンドル・シュル・リスルに集まった。その中には、米マサチューセッツ州西部で小さな大工会社を経営するラビの息子、ハンク・シルバーも含まれている。彼は数年前、「国境なき大工団」のプロジェクトでロイックと親しくなり、「伝統的な技術とサヴォアフェールを生かす」という考えに魅了され、2023年にノルマンディーにやってきたのだという。 アトリエ・ペローは職人たちに食事を提供し、宿泊場所も手配した。ロイックはストラスブール近くの知り合いの鍛冶屋に、職人一人ひとりに合った60本の手作りの斧を注文した。持ち手は、左利きや右利きに合わせて人間工学的に曲げられ、作業中に手が木材にぶつからないよう工夫されていた。また、刃は硬い鉄と柔らかい鉄を組み合わせて作られており、硬い部分が刃先を鋭く保ち、柔らかい部分が振動を和らげ、繰り返しの作業による疲労を軽減するようになっていた。 およそ19キロメートルの長さにおよぶ丸太に相当する木材を準備するために、現代的な方法も取り入れた。丸太の2面を製材所で切り出すことで、作業時間を短縮することができたのだ。ロイックは「中世の方法とは違うかもしれないですが、木目を大事にしながら、作業員の体力を温存でき、おそらくコストも抑えられました」と説明している。「この作業は体力的にとても厳しいです」と強調するロイックはこう続けた。「強い意志が求められます」 2023年6月には、身廊部分の60本のトラスがアトリエの敷地内に立てられた巨大なテントの中に並べられていた。その月、ジョルグランが、「ノートルダム大聖堂を再建する」の関係者や建築家、報道陣と共に進捗状況を確認しに来た。ロイックは誇らしげにジョルグランを迎え、アトリエ・デモンの職人たちと一緒に、ドロワール斧を使った作業を披露し、その後、ジョルグランにも丸太を削ってもらった。 「中世のやり方をお見せした」とロイックは振り返った。ジョルグランが見守るなか、職人たちは約7トンのトラスをロープで持ち上げ、大聖堂内でどのように見えるかを再現してみせた。ロイックは、ジョルグランが「木造建築万歳、ノートルダム万歳、そしてデモン家万歳」と言ったことをよく覚えている。 しかし、ジョルグランは再建されたノートルダムを見ることはなかった。ほどなくして、彼はピレネー山脈へひとりハイキングに出かけ、その間職務を一時離れていた。そして2023年8月、彼の遺体がスペイン国境近くの山のふもとで発見された。彼は転落して亡くなったと見られている。ロイックは、ジョルグランと交わした握手や、陽気な性格、自然とにじみ出るリーダーシップを思い出し、深いショックを受けた。プロジェクトの中心に大きな穴が空いてしまったのだ。 「本当に大きな衝撃でした」と、彼の死後に指揮を引き継いだフィリップ・ジョストは語っている。「でも、私たちはジョルグランがどうしてほしかったかを考えました。彼ならきっと『続けて成功を収めろ』と言ったでしょう」 2023年夏の終わりにトラスが完成し、大工たちはそれを分解してトラックでシテ島に運び、ノートルダム大聖堂で再び組み立てた。クレーンを使って慎重に設置が進むなか、他の改修作業も順調に進んでいた。 12月には、フランスの国章に描かれ、キリスト教のシンボルでもある金色の鶏が完成したばかりの尖塔の上に新しく取りつけられた。元々尖塔を飾った鶏をモチーフに生まれた新しい彫刻は、炎のような翼を広げ、灰から舞い上がる不死鳥を思わせた。彫刻を担当した建築家のヴィルヌーヴはそれを「復活の炎」と呼んだ。 2024年1月12日、クワイヤのシャルパントが完成し、プロジェクトで最年少の大工である19歳のレオナールが黄色いミモザの花束を捧げた。そして3月8日には、身廊のシャルパントを完成させたチームが集まり祝宴を開いた。高揚感とメランコリーが入り交じる場でロイックは大工や「ノートルダム大聖堂を再建する」のメンバーを前にスピーチを始めたが、ものの2分で止めざるを得なかったほど、感情が込み上げていた。 ◾️受け継がれる職人の魂 今年6月のある晴れた午後、「ノートルダム大聖堂を再建する」プロジェクトの広報副主任であるフレデリック・メイヤーが、大聖堂の東端にある仮設の基地で私を出迎えた。私はゴム長靴に保護スーツ、ヘルメットを身に着けて、広大な工事現場でメイヤーと合流した。 大聖堂は足場で覆われていたが、メイヤーは12月8日に予定通り、ノートルダムを再オープンできると自信を見せていた。その日は再開まであと6カ月もない状況だった。私たちは古びたエレベーターで約36メートルの高さにある屋根まで上がり、炎天下で休憩中の作業員たちのそばに降り立った。彼らはシャルパントの上に新しい鉛板を敷く作業の最終段階に取りかかっていた。 この作業は2カ月前から始まっており、まずパリ郊外の工房で重いタイルが成形されていた。屋根職人たちは「ヴォリジュ」と呼ばれる乾燥したオークの板を敷き、その上に防水紙を重ね、最後に木片でタイルを丁寧に固定していった。パリの街が目の前に広がっていた。セーヌ川やその河岸沿いの景色は、12世紀の大工たちが足場の上から見たものとさほど変わらないように感じられた。 下の広場には、彫刻家や石工などの職人たちのモノクロ写真を展示した仮設展があり、観光客がベンチに座って再建の様子を見守っていた。その向こうには、現代のパリが広がっていた。ラ・デファンス地区の高層ビル群、フォンダシオンルイ・ヴィトンの美術館、そしてエッフェル塔がそびえていた。 作業員たちと話した後、メイヤーが大聖堂の内部を案内してくれた。屋根全体の壮大な姿を見られると思っていたが、実際には低い天井の屋根裏のような空間に迷い込んでしまった。そこは柱や梁が複雑に組み合わさった迷路のようになっており、いくつもの仮設作業台がクワイヤのシャルパントを区切っていて、その全貌をほんの少ししか見ることができなかった。 作業員たちは尖塔やシャルパント全体に防火システムを取り付けており、もし再び火災が発生した場合にはミストが噴射されるようになっていた。尖塔の基部には2つの防火壁も設置されていた。その朝現場に到着したジャン=ルイ・ビデは、床の穴から約1メートルほど下のアーチ型天井を指し、ほぼ無傷だった部分を見せてくれた。 そこに、米マサチューセッツ州の大工ハンク・シルバーも加わった。彼は約8カ月間ノルマンディーでシャルパントの作業をしており、多くの外国人職人が帰国する中、フランスに魅了されて残ることを決めた。眼鏡とひげが特徴で、40代前半のシルバーはフランス語も流暢になり、今はフルタイムの仕事を探しているところだが、その間は屋根の仕上げ作業に従事していた。 その後は身廊の方へ進み、尖塔の下部に出た。そこでは、安全ベルトを着けた作業員たちが登山者のようにオーク材のフレームを渡り、2,000ある接合部がしっかり固定されているかを細かく確認していた。シルバーが、屋根の内部の木に残された斧の痕跡を見せてくれた。製材所で整えられた木材の滑らかさとは異なり、梁は粗く波打つような独特の質感を持っていた。それぞれの不完全さが、木の繊維の流れや斧の形、職人の手の動きの違いを映し出していた。 「斧で削られたこのフレームには、より深い美しさが宿っています。人の手の温もりと、時を超えて刻まれた歴史の息吹が満ちているからです」。こう語ったのは、この時点で「ノートルダム大聖堂を再建する」のプロジェクトマネージャーとなっていたフィリップ・ジョストだ。再建されたシャルパントには数百人の職人たちの技術と情熱が込められており、「魂が宿っている」と彼は表現した。 ノートルダムでの作業を通じて、シルバーもこのプロジェクトに自身の魂を込めていた。彼はこの偉大な仕事を最後まで見届ける決意を固めていた。以前は身廊が何かも知らなかったが、大聖堂の歴史に深く浸り、その魅力を理解するようになっていた。12世紀に建設された際には、3世代にわたる職人たちがそれぞれの痕跡を残していたと教えてくれた。シルバーは教会の北側にある梁を指し、現代の職人が半月形のサインを刻んでいたことを示した。「ここにも、多くの職人の魂が息づいている」と彼は語った。 ビデはその様子を複雑な感情で見守っていた。彼と同僚たちがつくり上げた傑作が、まもなく覆い隠されてしまうことを受け入れ、「私たち大工にとってはよくあることです。隠されるものをつくり出すのです」と話した。屋根の工事はほぼ終わり、12月の入場再開が近づいていた。その後、中世の先代たちと同様に、彼らの成果はまた暗闇に封じ込められ、次の850年間、その姿を再び見せることはないだろう。 From GQ.COM WORDS BY JOSHUA HAMMER PHOTOGRAPHS BY PATRICK ZACHMANN TRANSLATION BY FRAZE CRAZE