毒親に縛られ続けたライナス・ポーリング...ノーベル賞を2度獲得した天才の苦労
想像を絶する努力と母親の呪縛
――わが子を縛りつける、現代でいう「毒親」。 【高橋】当時のポーリングは、新聞配達・牛乳配達・郵便配達に加えて週末はボーリング場や映画館でアルバイトを行い、稼いだお金をほとんどすべて母親に渡していました。 高校卒業後、何としても大学へ行きたいと考えた彼は1年間、資金を稼ぐために機械工場で働くことにします。彼は有能で、真面目な勤務態度が評価されて昇給すると、母親ベルはポーリングに工場の正規社員になるように勧める。 しかしポーリングの決意は固く、蓄えた200ドルを手に、追いすがる母を振り払うようにしてオレゴン農業大学へ進学します。当時の大学の授業料は1学期16ドル、下宿代は1カ月25ドルでした。ポーリングは、このように細かな数字を『自伝』に書き記している。よほど必死だったのでしょう、生活が染みついているのです。 大学では、初めての恋人イレーヌとデートします。ところが、女性と一緒にレストランで食事しワインを飲んでいるうちに、あっという間に150ドルを使ってしまう。これではいけないと決意したポーリングは、イレーヌと別れ、授業の合間に学生食堂で働き、校内のフロアを清掃する重労働を月100時間も行なって、学費と生活費を稼ぎました。 ところが、再び母親ベルが悪性貧血で倒れてしまう。彼女はポーリングに大学を休学して働いてほしいと頼みます。やむなくポーリングは休学する旨を指導教授に伝えに行きますが、彼の抜群に優秀な才能を惜しんだ教授は、なんと彼に大学で講義しないかともちかけます。ポーリングを「大学生でありながら大学講師」という異例のポストにつけたのです。 正規職に就いたポーリングは、晴れて愛していた教え子のエヴァにプロポーズします。ところが、ここでまたしても母親ベルが結婚に猛反対する。 ――母親がボーリングに異常な執着を見せたのは、夫の死のショックや悪性貧血による妄想を抱えており、普通の精神状態ではなかったからでしょうか。 【高橋】そうかもしれません。さすがのポーリングも堪忍袋の緒が切れて、母親と絶縁します。しかし袂を分かったとはいえ、母親ベルの影が頭から離れることはなかったでしょう。