「3188日」の持つ意味――安倍国葬論を考える幾つかの視点
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この世では敵と味方に分かれていても、一方が黄泉の国に旅立てば恩讐を超えて厳粛に見送るのが、日本人が長い間に育んだ、かけがえのない風習である。しかし、政治の世界はそうはいかないようである。9月27日に行われる安倍晋三元首相の国葬(国葬儀)について、賛否両論が渦巻いている。メディアの世界では反対論の方が優勢のようである。私がテレビ番組で以下のような論を述べたら、テレビ局にクレームが寄せられ、身辺にくれぐれも気をつけて下さいと言われたほどだ。 安倍元首相の国葬問題をどう考えればいいのか。幾つかのアプローチがあるだろう。一つは、なぜ反対なのか、その理由の是非を検討してみることも一つの方法かもしれない。順不同でみてみよう。まず、国葬を行う根拠法もないし、国葬にしなければならない基準もないという点について考えてみる。 確かに戦前には、天皇の勅令である「国葬令」があった。しかし、1947年に失効し、根拠になる法律はない。岸田文雄首相はその根拠を内閣府設置法4条3項に定めた内閣の所掌事務として規定する「国の儀式」に求めた。国の儀式には、天皇の国事行為として行われる儀式と、閣議決定に基づき国が行う儀式があるとされるが、今回の国葬は後者に含まれるというのである。これについては参院立憲民主党の質問者も「行政権の判断で行い得るという解釈は、確かに法解釈論的にあり得るかもしれない」と言わざるを得なかった。
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橋本五郎