命じておいて信号文も知らない…「無能な司令部」が語った「ミッドウェー海戦」大敗北の「責任逃れな言い訳」
私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。今回はページ数の都合で本編に収載できなかったエピソードを紹介する。 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
敵空母「らしきもの」発見、と報告を受けるが…
82年前の昭和17(1942)年6月5日、ミッドウェー海戦で日本海軍機動部隊は主力空母4隻が撃沈される大敗を喫し、それまで日本軍が優勢だった太平洋戦争(大東亜戦争)の潮目が変わった。 当時空母「赤城」飛行隊長だった淵田美津雄中佐、第二機動部隊で参謀を務めていた奥宮正武中佐が戦後、著した『ミッドウェー』(日本出版協同・1951年)では、敗因として、 〈利根機(索敵機)の発進三十分の遅延は、はからずもここに本海戦失敗の致命的原因を潜めたのである。〉 と、予定時刻から30分遅れて発進した重巡「利根」搭載の水上偵察機(機長・甘利洋司一飛曹)による索敵の不手際が挙げられている。その遅れて発進した利根四号機が、予定索敵線から北に150浬(約278キロ)もはずれた方角で、10隻の「敵らしきもの」を発見した。 『ミッドウェー』には、次のように書かれている。 〈「敵らしきもの一〇隻見ゆ。ミッドウェーよりの方位一〇度二四〇浬、針路一五〇度、速力二十ノット、〇四二八(注:午前四時二十八分、日本時間)」 南雲中将をはじめ司令部の人々は愕然とした。(中略) 「敵らしきもの十隻、とはなんだろう」 と、参謀たちは首をひねった〉 さらに約1時間後、粘り強く触接(しょくせつ)を続けた同機はついに「敵空母らしきもの」1隻の発見を報告してきた。この期におよんでなお、司令部では、 〈それでも、なお「らしき」ときているので、ほんとに空母がいるのかなあと、半信半疑の割り切れない思いを抱いている。〉 と、『ミッドウェー』には記されている。あたかも、甘利機の索敵報告に不備があり、それが司令部の判断を遅らせたと言わんばかりの書き方である。