「ヤワラちゃん」に敗れて狂った競技人生 でも、ドジな私にできたから…16歳で五輪出場、世界で活躍した先駆者が子どもたちに伝えたいこと
立ちはだかった「ヤワラちゃん」
バルセロナ五輪を目指す中で、強敵が現れた。のちに二つの金を含む五輪5大会連続メダリストとなる「ヤワラちゃん」こと田村(現姓谷)亮子。筑波大1年の全日本体重別選手権は準決勝で田村を破り5連覇したが、翌91年は決勝で田村に敗れた。「今まで国内で負けたことがなかったので、その事実が大きなショックだった」。同年の福岡国際の決勝で再び田村に屈した時に右肩を骨折して手術。その頃から歯車が狂い始めた。
自己流の管理、体調に影響
けがは癒えても、精神的なダメージに加え、体調の優れない日々が続いた。成長期に食べたい欲望を抑え、常に体重を気にしてきた。「私は試合前に急激に落とすのではなく、常に48キロに近い状態でいたいタイプだった」。当時は栄養学の知識が乏しく、炭水化物を徹底して制限するなど自己流で管理。その反動が体調に表れた。 大学卒業後は実業団チームに5年間在籍したが、「試合場に行くと、緊張で立っていられなくなった」。他選手の練習相手などサポートに回ることが多くなり、試合から遠ざかった。
得た財産は「人とのつながり」
五輪に出場して得た財産は「人とのつながり」。柔道で最年少だったこともあり、常に周りから支えてもらったことを感謝する。昔の柔道仲間に声をかけられた縁で、現在は福岡県立特別支援学校北九州高等学園の寄宿舎で指導員を務める。 五輪のメダルは寄宿舎に置いてある。「子供たちには私が五輪に出たと言っても信じてもらえないけれど、メダルを手に取ると信じてもらえる。いつもドジで弱そうな私にできたのだから、自分にもできるかもしれない、自分にも支えてくれる人がいると感じて励みにしてもらえたらいい」