「埼玉では内緒に…」福島・双葉の子どもたちが抱えた葛藤、元校長が語り継ぐ。「心」を守る大切さとは【ルポ】
◆「双葉の家は大きくてね…」小2の言葉に
双葉町の子どもたちは事故後、避難所から埼玉県加須市の騎西小学校に通うことになった。泉田さんも11年4月から双葉町の小学校に赴任予定だったため、同小学校で共に過ごすことになった。 「私は教頭、校長として子どもたちと関わってきました。双葉の子どもたちが震災と原発事故後、どんな様子だったのかについてお話します」。こう切り出した泉田さんは、ある小学1年生の児童の話を始めた。 その児童は、避難所から100メートルほど離れた騎西小に集団登校で通う途中、見送る母親の姿が見えなくなるタイミングで毎日涙を流した。その時の泣き方が「ええん、ええん」ではなく、「おぎゃあ、おぎゃあ」と生まれたての赤ん坊のようだったといい、泉田さんは「赤ちゃんに戻っちゃったんだね。私に何ができたのか。何もできないんだよ」と語った。 それでも「大丈夫、大丈夫」と声をかけ続けて手を差し出すと、児童は握り返してくれたという。「何が大丈夫なのか自分でもわからないんだけど、そのうち学校に行けるようになったんだ」 次は、小学6年の児童の話。勉強、運動、音楽も得意で、双葉では常に輪の中心にいるような児童だったが、避難先の学校でうまく馴染めず、不登校になってしまった。 「普通の転校だってなかなか大変なのに、被災者として入ったら難しいこともある。自分の理想とする姿、避難民としての姿、避難先にお世話になっている姿。悩んでしまってね、学校に来られなくなった」 泉田さんは放課後、毎日児童の自宅を訪問したという。エレベーターのない建物を5階まで駆け上がり、インターホンを鳴らして「元気?」と声をかけ続けた。決して「学校に来てほしい」とは言わなかった。ただ声を聞きたかった。学校には来れなかったが、それから8年の月日が流れたある日、思わぬことが起きたという。 「20歳の成人式の日、その子が勤め先を訪れてくれたんだ。たまたま出社してなかったんだけど、その後の電話で『先生、私ね、今は福祉の勉強をしています』と胸を張って言ってくれたんです」 泉田さんは続けて、「電話だから本当に胸を張ってたかどうかはわからないんだけどさ」と照れくさそうに話したが、マスク越しでもわかる嬉しそうな表情を見て、話を聞いていた高校生らの頬も緩んでいた。 一方、小学2年の児童はこんな悩みを抱えていた。 放課後、図書室で勉強を見ていた時、「ここでは何を話してもいいの?」と泉田さんに聞いてきた。泉田さんが耳を傾けると、「双葉の家は大きくてね、おもちゃもいっぱいあって、庭に出るとザリガニが釣れたんだ」と話し始めた。 しかし、次第に表情が曇り、「その話は埼玉の友達には内緒にしているんだ」と声を落とした。児童は、「そんなに良い所なら帰ればいいじゃん」と言われることを恐れていた。「小学2年生の小さい胸に、その苦しい思いをしまっていたんだね」