アルバムを見ながら思い出を語る東和子さん=霧島市国分松木町(南日本新聞社)
ラジオで天皇陛下の声を初めて聞いた。兵士は泣いていたが「これで帰れる」というのが一番だった。汽車と徒歩でたどり着いた故郷は焦土と化し、板戸に消し炭で書かれた伝言を手掛かりにやっと家族と合流できた【証言 語り継ぐ戦争~学校報国隊㊦】
【関連記事】
- 内地の子どもたちも頑張っているよと懸命に描いた慰問の絵から、教師は赤い太陽をナイフで削り落とした。夜明け前からやっているとのメッセージにしたかったのか。国全体が暗かった。【証言 語り継ぐ戦争】
- 本土決戦に備え霧島神宮周辺に20カ所以上の戦車壕が築かれた。空襲警報が鳴った日の帰り道、中をのぞくと兵士の死体が転がっていた。いつの間にか戦車隊はいなくなったが、ひどい食糧難で関心もなかった【証言 語り継ぐ戦争】
- 爆弾抱えて塹壕から敵に体当たり…。今考えると恐ろしい決死隊の訓練だった。空腹と疲れで当時はそうも思わなかった【証言 語り継ぐ戦争】
- 「僕らはこれから飛び立つ。君たちは頑張ってくれ」。特攻機の中継基地・浅間飛行場で、少年志願兵の私は励まされた。何とも言えない切なさだった【証言 語り継ぐ戦争】
- 収容所の食事は出来高制。目標を下回ると減らされた。ソ連兵が指図し、配膳役は日本人。脱走者の銃殺遺体は見せしめとして放置された【証言 語り継ぐ戦争】