アメリカ大統領選挙の基本「共和党と民主党の二大政党制」が成立した経緯とは?
二大政党制の成立
とはいえ、ここでワシントン大統領でも抑えが利かない問題が発生してしまいます。 それが「フランス革命」です。 じつは、アメリカ合衆国は独立戦争に当たってフランスから莫大な資金援助および軍事援助(※1)を得ており、フランスには大きな"恩義"を負っていました。 そのため独立からほどなく「フランス革命」が勃発すると、フランスに援軍を送るか否かをめぐって「連邦派」と「反連邦派」の対立が抑えきれなくなってきます。 「ラファイエット殿には口では言い表せないほどの恩義がある! その恩義に報いんためにも革命側に立って参戦すべし!」 親仏の反連邦派がそう捲したてれば、親英の連邦派も反論。 「たしかにラファイエット殿には義理がある。だが、畢竟我々はイギリス人、イギリスと干戈を交えるなど考えられぬ!」 国家というものは創業時がいちばん不安定なので、少なくとも体制が安定するまでは外国の悶着に巻き込まれず、内政に尽力しなければなりません。 建国早々"第0次世界大戦"と謳われることもある動乱の欧州情勢に巻き込まれてはアメリカ合衆国の未来は殆うい。そのためワシントンは「中立宣言」を発します。 ──我が国は欧州情勢には関知せず、英仏いずれの陣営にも組しない。 しかし、連邦派と反連邦派の対立は収まりを見せず、彼は両派からの突き上げを喰らい、神経症となってしまいます。 ──こんな誹謗される立場に置かれるくらいなら墓の中にいた方がマシだ! ついに彼は次期大統領選の出馬を拒否(※2)、その告別演説にて「党派闘争の否定」と「中立政策の堅持」を訴えて政界を去ることになりました。 ワシントンはその2年後に世を去りましたが、彼の遺訓「党派闘争の否定」と「中立政策」は守られることなく、そこから2代・3代・4代大統領と連邦派は「連邦党」に、反連邦派は「共和党」となって内政的には激しい党争が、外交的には英仏と同盟や戦争に明け暮れる(※3)ことになりました。 こうしてアメリカ合衆国は、早くも2代大統領のころから「二大政党制」に突入することになります。 [注釈] (※1)政府(ブルボン朝)からは軍資金20億リーブル(当時のフランスの歳入の4年分)の借受けや援軍派兵、民間からはラファイエットやサン=シモンらの義勇軍など。 (※2)もし、このときワシントンがつぎの大統領選に出馬していたら、確実に当選していたであろうにも拘わらず、彼が「2期8年」で自ら身を引いたことで、以降、「3選目は出馬しない」という慣例が1940年までつづくことになりました。 (※3)具体的には、「ジェイ条約(米&英)」や「疑似戦争(米vs仏)」「1812年戦争(米vs英)」など。