「うわ~なつかしい~」「よく走ってたよね」広告戦略が秀逸!軽三輪ブームの立役者[懐かし名車旧車]
戦前から戦後、元気に街を走り回ったオート三輪
戦争で荒廃した日本の復興期になによりも必要とされたのは、バスやトラックなどの商用車だ。戦時中は軍用の大型トラックなどを作っていたトヨタや日産、日野やいすゞは、早くから生産を再開して、旺盛な復興需要に応えた。 戦前から、オート三輪の2大メーカーだったダイハツと東洋工業(現マツダ)も、戦前型の生産を再開し、こちらは商店などの小口の需要を満たしていった。一方で、戦争中には航空機や軍艦などを手がけていたメーカーも、技術を活かして民生用の乗り物作りに乗り出した。工場に残されていた軍用資材を使い、中島飛行機(現富士重工)はラビット号、三菱の航空機部門はシルバーピジョン号というスクーターを開発して好評を得た。ラビットは陸上攻撃機「銀河」の尾輪を使って開発され、三菱がスクーターに続いて開発したオート三輪のみずしま号の荷台には、航空機用のジュラルミンが使われていたのだ。 中でも比較的簡単に作れるオート三輪の分野には、愛知機械や明和興行など、旧軍事メーカーが数多く参入。中小メーカーもふくめて、たちまち激戦を繰り広げた。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による自動車の生産制限が解かれて間もない1952年には、小型乗用車の生産台数が年間でわずか5000台足らずだったのに対して、オート三輪はなんと月に4000台。1954年には年間10万台も生産される活況を呈している。その中でも、ダイハツとマツダという2大ブランドは大きなシェアを占め、ライバルメーカーが次々と脱落していく中で、確固たる地歩を固めていった。 ただし、トヨタや日産などの大メーカーは、再興後の日本を見据えて、次のステップに踏み出していた。トヨタは独自技術で乗用車作りに挑み、日産や日野、いすゞは、それぞれオースチンやルノー、ヒルマンなどの外国車のノックダウン生産で学びながら、小型四輪車作りの技術を確立していく。1955年には、トヨタが初の本格純国産乗用車、クラウンを発売。同年に日産もオースチンでの経験を活かした小型車のダットサンを売り出す。 庶民にとってマイカーはまだ遠い夢だったが、日々豊かになる高度経済成長は、「いつかはマイカー」という夢を人々に抱かせた。復興とともに、トラックやバスも大型化、高級化を指向し、オート三輪もサイズや装備を拡充する一方、中小企業も四輪トラックに手が届くまでに成長していった。そんな中で、オート三輪の原点に帰った軽便な貨物車としてミゼットは登場して、成功したのだ。 ◆ダイハツ SKC7型(1957年)(DKAと同年に発売されたダイハツの小型オート三輪):キック始動からセルモーターでの始動になっているが、バッテリー上がりなどの非常時にはクランク棒による始動もできたという。簡易型のドアはあるがまだバーハンドル。エンジンは空冷V型2気筒751ccの4サイクルで、22馬力を発生。最大積載量は750kg。