ただひたすら、寂しいという感覚ーー夫死別と重なったコロナ、小池真理子の悲しみ
夫婦そろって直木賞作家。昨年、夫・藤田宜永が闘病の末、他界。小池真理子(68)は、37年来の“かたわれ”を亡くした悲しみと向き合いながら、軽井沢で執筆活動に精魂を傾けている。弔いのタイミングは思いがけずコロナ禍の序章に重なり、一人きりで思索する日々が続いた。「人とのつながり」、「孤独」、そして「幸福のかたち」とは……深い森の中から現代SNS社会を眺める作家の瞳は今、何を捉えているのか。(取材・文:山野井春絵/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル特集編集部)
ただひたすら、寂しいという感覚
37年を共にした藤田が肺がんで亡くなったのは、昨年1月。世界中に新型コロナウイルスが蔓延しようとしていた、まさにその頃だった。今も、夫を失った悲しみは癒えていない。 「ただひたすら、寂しいという感覚が、絶え間なくあります」 夫婦でいる時は、「一人でいること」が極上の時間に思えた。それぞれ仕事で上京することが多く、そんな時は、シングルのような気分で好きなことに没頭できた。直木賞受賞作『恋』のアイディアが“降臨”したのも、藤田の不在時、ワインを飲みながらバッハの『マタイ受難曲』を大音量で聴いていた時だ。 誰かがそばにいないと寂しい、そんなことは考えたこともなかった。それが、脆くも崩れた。 「皆さんに『寂しいでしょ』、『夜、周りに全然電気がついてないのは怖くないですか』とか言われるんですけど、ちょっと私にはわからなくて。東京も軽井沢も1人でいる時は同じ。アフリカだろうが、パリだろうが、どこに住んでいてもその人の持っている精神性がすべてを決めていくんじゃないでしょうか。藤田は、この軽井沢という町を愛していました。私も、ほんとに体が動かなくなるまでここにいたいなと思ってます」 満点の星が間近に迫る夜空。庭には、キツネの親子が訪れる。野鳥の声に包まれ、四季折々の風景の変化を眺める暮らしは、とても豊かだと語る。 「時間が経つにつれて、悲しみの種類が変わっていくと感じています。一日中、彼のことを考えているわけではないんですよ。でも、何かふとした瞬間に思い出して、悲しみがこみ上げることがあって、そういう時は、そのまま寂しい気持ちに浸ります。『だめだ、こんなこと考えてちゃいけない』って抵抗するとかえってよくないので、浸ってしまうんです。しみじみメソメソして。すると不思議なことに数分後には立ち直ります。一人で暮らしていると、やらなくちゃいけないことはたくさんあるし。実感を積み重ねていく間に、37年一緒に過ごした人の死を受け入れていくのかもしれません」 夫婦で暮らしていた頃は夜型だったが、藤田が亡くなってからは、酒もあまり飲まなくなり、ずいぶん早起きになった。食事はすべて自分で作って食べている。こうしたリズムを崩さずにいる生活は、身近な人を失った感覚に慣れるためのエクササイズのようなものだ、と小池は言う。