ただひたすら、寂しいという感覚ーー夫死別と重なったコロナ、小池真理子の悲しみ
私たちはネガティブな状態に陥ることを避けられない
小池はSNSアカウントを持っていない。「日常的に自己表現、自己分析を生業にしてきたせいで、その必要性を感じなかった」からだ(朝日新聞「be」『月夜の森の梟』2020年11月28日より)。 ところが、夫が末期がん宣告を受けた頃から、小池はネット検索を繰り返し、Twitterやブログで闘病者やがん患者を看病する人の言葉を求め始める。死後は、「死別・夫」を検索し、見知らぬ人たちの寂しさや苦しさの吐露に、安堵しながら眠りにつく夜が続いた。 「彼女たちのブログをベッドの上でずっと読んでいました、『ああ、おんなじ、おんなじだ』って。ばかげたことをしてるって分かってるんだけど、止められない。あんなこと、これまで経験したことはありませんでした」 それはひととき、眠る前の安心材料となった。しかしそれも、本当の意味で悲しみを払拭させてくれるものではなかった、と振り返る。 「家族でもペットでも、同じ経験をした人たちの喪失の悲しみを共有したい気持ちは、誰しもありますよね。でも、根本的に、それは誰とも共有できるものではないと思っています。友達や仲間は理解してくれますし、会話を交わして落ち着くことはありますが、だからといって、すべての問題が解決するわけではない。生きている限り、私たちはネガティブな状態に陥ることを避けられないんですよね。そうなると、やっぱり最後に頼れるのは自分しかいなくなる。でも、それが一番つらいことではあります。誰にも頼れないし、すべて自身で決断して進んでいく努力をしなくちゃいけない。だけど、それが生きていくっていうことなんじゃないかな」 結婚している。子どもがいる。家族が健康である。いい家に暮らしている……こうだから幸せ、何があるから幸せ、という「幸福のかたち」は、外部から押し付けられたものだ、と語る。
「藤田が亡くなってすぐに、新型コロナウイルスの影響で外に出られなくなったことは、追い討ちをかけられたような大きな衝撃でした。家の中でずっとテレビを見ていたり、ネット検索をしていると、どんどん心もとない気持ちになってくる。『周りで作られたイメージから自分は大きく外れている』と思ってしまう。日々、一つひとつの小さな事象に私たち現代人は晒されながら生きています。孤独ではダメとか、友達はたくさんいなくちゃいけないとか、『幸福のかたち』に当てはまらない自分は不幸だと決めつけてしまう……そういう風潮に、私は以前から反発していました。生き方や考え方を決めるのは、全部自分なんです」 今、人々は、メディアにつくられた「幸福のかたち」に振り回されながら、他人への寛容さも失いつつある。 “自粛ポリス”やワクチンをめぐる風評など、コロナ禍では相互監視の傾向が強まった。プライバシーの保護、多様性の尊重といった文脈が広がる一方で、過剰なバッシングや、匿名でのネットいじめに苦しむ人たちは後を絶たない。