ただひたすら、寂しいという感覚ーー夫死別と重なったコロナ、小池真理子の悲しみ
また、「不倫」に対する社会の風潮も、この20年ほどで大きく変化した。かつては「道ならぬ恋も芸のこやし」として、芸能人の不倫に対する風当たりはおおらかだったが、今や致命的なダメージを受けることもある。政治家や財界人はもちろん、一般人にとっても、不倫は御法度という風潮が広がりを見せている。さまざまな恋愛を小説に描いてきた小池は、この現状をどう考えているのだろうか。 「『ボヴァリー夫人』も『アンナ・カレーニナ』も、世間では許されない関係の男女を描いていて、古典的名作文学と言われてきたわけです。少なくとも、私は若いころから作品に描かれた不貞に対しては、何の反発も覚えなかった。不倫が悪だという認識はまったくない。文学、アートっていうのは、そもそも“反俗”なんですよ。俗に反しているものを表現していくのがアーティスト。優れた仕事を残した人たちっていうのは皆、反俗の姿勢をもっています。私も、世間の決めた倫理基準に則して何かをつくるということはできないタイプなので、好きに書いてきましたし、これからもそうするつもりです」
「小池真理子は不倫しか書かない」と言われたことがあるという。確かに物語の設定として扱うことは多いが、一対の男女の、深い人間性を描いているのであって、不倫や不貞そのものがメインテーマではない。それは、小池のどの作品でも、きちんと読めばわかることだ。 「許されなくても許されても、恋は恋です。世間の基準値を満たして、周囲の祝福を受けて、誰もが『おめでとう』って言ってくれるような関係ばかりではない。秘密を抱えて逃げ続けたり、どこかで嘘をついたりごまかしたり、それでも好きなものは好きなんです。そこにこそ、文学的テーマが感じられます」 他人の不貞に目くじらを立てる風潮。小説の読み方そのものが変わってしまうのではないかと危惧する小池は、そもそも人々の心根をここまで変えた原因は、「携帯電話の出現」にある、と指摘する。 「いつでも連絡が取れて、別れ話も電話一本、メール一本でできるようになってしまった。時間のスピードが異様に速くなり、私たちの気持ちが追いつかなくなったところへ、スマートフォンが現れて、今度はいつでも検索ができるようになりました。簡単に他人の影響を受けるようになって、情報が過剰な分だけ、自分自身でものを考え、判断する力が失われていきます。そうなると、新たな不安が次々に生まれてくる。その不安をいち早く払拭したいと思うと、さらに他人のことが気になっていく。どんどん自分自身が見えなくなってしまう。私たちが本来兼ね備えている感情は、いい意味で古典的なものであり、何も変わっていないと私は思っています。いくら時代が変わっても、人の気持ち、人間の心は本質的には変わらない。小説は、人間のそうした本質を描くためにこそ存在している、と思っています」