芸術は経営でできている…!意外と知らない「歴史的芸術作品」が生まれる「しくみ」
バイオレート:規則に従うか従わないか、それが問題だ
芸術作品が高評価されるには、美術館経営者、学芸員・キュレーター、美術商、パトロン・顧客、一般客などが次々と作品の文脈を理解した上で作品に対して能動的に意味づけしてくれなければいけない。 文脈が理解されなければ、小便器をもって街中でウロウロしている変態中年は眉をひそめられるだけだ。この点がまさに経営の問題なのである。 芸術は他者と文脈を共有するために、ある程度は規則や「お決まり」に従う必要がある。色彩の規則、音階の規則、文法の規則、遠近法、対位法、起承転結などだ。 しかし規則に従いすぎると、今度はつまらない作品に堕してしまう。「暗い嵐の夜だった」で始まる小説は陳腐だとされる(今なら逆張りで面白くなるかもしれないが)。一方で規則から外れすぎると、自分にとっても他人にとっても意味不明なものが出来上がる。 本書もまた、「昭和軽薄体」に対して「令和冷笑体」という、時代の雰囲気に合わせたスタイルを提案する文体芸術を目指している。 このことが伝わらないと「よくある冷笑系学者の勘違いエッセイ」とされるのが関の山だ。こうした事情から、本書もある程度は昭和軽薄体エッセイの型を踏襲しているわけである。 このように、芸術を芸術として成立させるには、作品の意図を理解し、実現し、評価するネットワークを構築していかなければいけない。そのために、一定程度は芸術の規則を踏まえる必要がある。 ひとたび芸術が成立すると、そこには富や名声といった報酬が生まれる。 このとき、作品に対して与えられた報酬を分配する必要が生じる。たとえば富の分配であれば画商や画材屋といった関係者たちに手数料・材料費等を支払うことになるし、名声の分配であれば映画のエンドロール(クレジット)や書籍の謝辞といった形で貢献者の名前を挙げることになる。 こうした富と名声の再配分を通じて、芸術ネットワークの参加者たちが特定の芸術家の作品を存続させる限り、当該芸術家は引き続き芸術活動に打ち込める環境を与えられる。 芸術のネットワークが持つこうした機能ゆえに、ネットワークの中心にいる特定の作家の「名前」が芸術において異様なほど力を持つ。 だからこそ、レンブラント作とされていた『黄金の兜の男』が実は無名の画家の作品だったと分かった瞬間に、一目この絵画を見ようと詰め掛けていた人たちの行列はどこかに消える。あるいは安物の複製品とされたダ・ヴィンチの『サルバトール・ムンディ』が真筆と判明した瞬間に数百億円の値がつく。 芸術作品は人と物のネットワークによって「芸術作品になる」のである。 しかし、芸術家はときおりこうしたネットワークの存在を軽視し、自己の貢献度合いを高く見積もりすぎる。その結果として芸術作品に与えられた報酬をあまりに自分本位に分配してしまう。そうして芸術ネットワークは崩壊へと向かう。 たとえば芸術作品を制作するために特殊な素材や道具が必要となる場合、あまりにも自分本位な報酬の分配を繰り返す芸術家(お金もケチる上に作品はすべて自分の力だけで作ったと喧伝する人)に対しては、上記の素材・道具を作ってくれる他者はいなくなる。 そうした「欲張り孤高型の芸術家」は作品に必要な素材・道具を自作するしかない。そのうちに作品制作の時間や労力よりも素材・道具制作の時間や労力の方が大きいという本末転倒な状況に陥り、多くの場合には作品が完成されないか予定よりも大幅に遅れて予定よりも大幅に低品質なものが完成する。 このように「芸術作品の価値は芸術ネットワーク全体で創造していくものだ」という視点を忘れると、どんな名作も具現化されないか駄作の山に埋もれてしまう。