【大学野球】早大野球部と台湾の野球の深い縁 高いレベルでの文武両道を体現
嘉義農林を題材にした映画に影響を受けて
歴史をさかのぼれば、早稲田大学野球部と台湾の野球は、深い縁がある。1917年に初めて渡台。2017年には100周年記念試合を実施するなど、現在も交流が続く。100年以上前の同遠征が、台湾における野球普及のきっかけになった。1931年夏の全国中等学校優勝野球大会で、嘉義農林が準優勝。四番・エースで主将だった嘉義農林・呉明捷は早大に進学した。大学入学後に野手に転向し、36年秋に首位打者。在学中には慶大・宮武三郎と並ぶ通算7本塁打を放ち、57年秋に立大・長嶋茂雄(元巨人)に更新されるまで約20年、東京六大学リーグの連盟記録だった。 嘉義農林を指揮したのは近藤兵太郎氏だった。約50年の指導歴があり、20代から30代にかけては松山商(愛媛)を率い、40代から50代は台湾、帰国後の60代は新田高(愛媛)で指揮した。新田高での教え子である稲門倶楽部・亀田健氏は「日本の正しい野球を教わったおかげで、今日がある」と、恩師の功績をたたえた。高校時代の思い出を語る。「(すでに高齢で)ノックを打つのもままならない。雨が降ると『ルールブックとノートを持って来い!!』となりまして、野球のイロハを学びました」。近藤氏は今年1月、台湾の棒球名人堂(野球殿堂)に選出。亀田氏は8月に行われたレリーフの除幕式に出席し、近藤氏の子孫のメッセージを代読した。
2014年には嘉義農林を題材にした映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』が上映された。台湾でも公開され、影響を受けた小学6年生がいた。早稲田大学の4年生としてプレーする右腕・黄鼎仁(4年・新竹高)だ。 「周りの仲間も皆、KANOを見ました。呉明捷さんの早稲田での活躍を知り、早稲田大学にあこがれ、早稲田大学に入学しました。2月、7月の台湾遠征に参加しましたが、国際交流を通じて、お互いに理解を深めることができ、有意義な時間になりました」 亀田氏は壇上で、黄が新竹高時代に着用していた青いTシャツを披露した。背中には『球者魂也』とプリントされていた。精神野球とデータ野球の共存を目指し、近藤氏が提唱していた「球は霊なり」の意である。約100年のときを経て、同氏の教えが台湾で継承されており、亀田氏は「まさか、こんなところに生きているとは!!」と感慨深く語った。 黄は今秋の東大1回戦で、リーグ戦初登板(1回無失点)を果たした。100人以上が在籍する野球部の激しいチーム内競争を勝ち抜き、ベンチ入り25人を勝ち取ったのである。 早大は今春、7季ぶりのリーグ制覇を遂げた。今秋も勝ち点4で首位に立っており、優勝へのマジックは「1」。対象である明大が11月2日からの法大戦で1敗すれば、春秋連覇が決まる。しかし、早大・小宮山監督はこうした星勘定に興味を示さない。あくまでも「2季連続での完全優勝」に集中している。「主将の印出(印出太一、4年・中京大中京高)も言っているが、我々は早慶戦でチームを完成形にする。勝ち点5を取るために必死に練習している」。11月9日からの早慶戦で、勝ち点(2勝先勝)を奪取することしか頭にない。 優勝しなければいけない一つの理由がある。小宮山監督の言葉にも、力が入る。 「国際教養学部に在籍している黄は9月卒業なんですが『最後の早慶戦まで一緒にやる』と、卒業を延期して学生をしている。リーグ優勝すれば、明治神宮大会に出場しますが、今年は記念大会であり、そこで優勝すれば台湾へ派遣してもらえる。彼を凱旋登板させたい。(チーム内にも)ゲキを飛ばしています」 44部ある体育各部を統括する早稲田大学競技スポーツセンターでは、2014年から各部員を対象とした「早稲田アスリートプログラム」を実施。学業と部活動を両立し、社会性と豊かな人間性を兼ね備えた人格形成を目指している。競技者として、勝利を目指すのは当然だが、技術向上以外にも、大学生として必要な「学び」がある。こうした定期的な国際交流を通じて、人としての幅を広げ、高いレベルでの文武両道を体現している。 文=岡本朋祐
週刊ベースボール