文芸研究家、墓マイラー カジポン・マルコ・残月
「文芸研究家」「墓マイラー」を名乗るカジポン・マルコ・残月(ざんげつ)(48)は、文学、美術、音楽、映画、アニメなど芸術全般を守備範囲に「この作品が好き」と思ったら、その作家の一生を調べ尽くす。29年間で100カ国、2300人の墓巡礼をしたというから、尋常ではない。「墓巡礼ツアーやります」とネットで呼びかければ全国から申し込みがくる。東京と大阪でオフ会が行われるほど、ファンがいる。根っからの「アウトサイダー」なのか、それとも確信犯の「高等遊民」なのか、果たしてどんな人だ?
(ライター井上理津子/Yahoo!ニュース編集部)
「お墓はそこに眠る人のラストメッセージ」
はじめのうちは、講師を務めるこの人が少し浮いているかのように見えた。5月23日、東京・青山霊園で開かれた、茨城県の石材会社の社長が企画した社員研修ツアー。
「はじめまして。文芸研究家で、ジャスト100カ国、2300人の偉人のお墓を巡った“墓マイラー”のカジポン・マルコ・残月です。今日は皆さんと一緒に、ここに眠る著名人のお墓を巡りたいと思います」
そう挨拶すると、A3用紙4枚に115人もの名前とプロフィールを記載した、自作の「青山霊園 著名人リスト」と霊園の案内図を配布した。20代から40代の6人の参加者は、特段の興味もなさそうに受け取る。立っているだけで汗が噴き出す、雲ひとつない炎天下である。
カジポンが案内し、皆でぞろぞろと霊園を歩く。説明が始まる。
「これは幕末・明治の政治家、大島圭介のお墓です。戊辰戦争で榎本武揚らと函館の五稜郭にたてこもった時、徹底抗戦を訴える仲間に『死のうと思えばいつでも死ねる。今は降伏と洒落込もうではないか』と説得した人なんですね」
熱く語るも、参加者らは「アウェイだな」とばかりの面持ちだったのだ。ところが、やがて皆の表情が変わり始めた。
「このお墓は藤村操。播磨の出身。明治36年、旧制一高の学生だった16歳の時、日光の華厳の滝で投身自殺したんです。現地のミズナラの木に『巌頭之感(がんとうのかん)』−−人生は不可解だという哲学的な遺書を書いて。社会に衝撃が走り、真似て華厳の滝で自殺を図る人が185人も出て、そのうち40人は本当に死んじゃったんです」
「マジですか」と参加者。
「そう、マジ。墓石に『巌頭之感』って掘られているでしょ? お墓はそこに眠る人のラストメッセージですからね」
「ラストメッセージ?」
「ええ。アメリカ、カリフォルニア州にある映画監督のビリー・ワイルダーのお墓には『お熱いのがお好き』の名セリフ『Nobody’s perfect』−−完璧な人間なんていないさ、と刻まれています。ゴッホのファンだった棟方志功は、フランスへゴッホのお墓の寸法を測りにわざわざ行って、そっくりのお墓を青森に建てた。お墓からゴッホへの愛を叫んでいますよ」
「それ、見に行ったんですか」
「もちろんもちろん」
参加者たちの目が輝いた。
続いて中江兆民の墓前で、ルソーを日本に紹介した明治の思想家と説明してから「日本初の告別式が行われた人なんですよ。中江自身は遺言で葬式をせずに荼毘に伏すように求めていたのに、遺族やお弟子さんたちが、代わりに告別式を行おうと提案。ここ青山墓地で、棺を安置して板垣退助が弔辞を述べる告別式が行われ、約1000名が参列しました。中江は『それ、葬式と同じやんか』と思ったんじゃないかな(笑)」と。
「へ〜、面白い」と一人が言い出し、「告別式って言い方、この人からだったんだ」などと、わいわいがやがや。以後、この研修ツアーは盛り上がりを見せ、ランチ休憩をはさんで約4時間、暑さもそっちのけで続いた。もっとも、一番楽しんでいたのは、カジポン自身だったかもしれない。
「青山霊園には10回以上来ていますが、“墓は生きている”なんです。同じ墓でも、季節、気温、時間帯によって全然違って見える。それに、訪れる側の知識や気持ちによって変わりますから」
墓前でじっくり手を合わせ、時には墓石を愛おしそうに撫でる。カメラにおさめる。参加者が興味を示すたび、会心の微笑みを浮かべる。
「お墓を通して敷居低く多くの人に先人の偉業を伝えるのが僕のミッションだと思っていますから、皆さんがこうして興味を持ってくれると、すごくうれしい」
「僕のヒーロー、ドストエフスキーは架空じゃなかった」
「墓マイラー」とは、歴史上の人物や芸術家らの足跡に思いを馳せ、墓を巡礼する人のことを指す。カジポンが25年ほど前に使い始めた言葉だ。
「19歳の時、ロシア・サンクトペテルブルクのドストエフスキーのお墓を訪ねたのが最初です。10代の精神的にしんどかった頃、僕は『罪と罰』を読んで人類も捨てたもんやないと救われたんです。ドストエフスキーは両親に次ぐ恩人なので、ひとことお礼を言いたいと思って」
ドストエフスキーの墓がある修道院に最も近いホテルに泊まるツアーを探して参加。自由行動の時間に墓めがけてダッシュした。
「うわー、あった!と感激し、手のひらで墓石に触れて『スパシーバ(ありがとう)』と言った瞬間、全身が雷に打たれました」
僕のヒーロー、ドストエフスキーは架空じゃなかった、本当にいたんだ−−。『罪と罰』で読んだフレーズに熱い血が通ったと感じた途端、鳥肌が立ったのだという。これを「アートサンダー」と、カジポンは表現する。
ふとドストエフスキーの墓の斜め後方に目をやると、「白鳥の湖」「くるみ割り人形」のチャイコフスキー、「展覧会の絵」のムソルグスキーら、大好きな錚々たる作曲家の墓が並んでいるではないか。またまた一人ひとりの墓に「スパシーバ」。
「それからです。僕には恩人がいっぱいいる。感動のもらいっぱなしでは申し訳ない。チャップリン、ベートーヴェン、ゴッホ、手塚治虫、シェイクスピア……。感謝を伝えないといけないと思うようになったのは」
その思いが29年も継続。いや、年々激しくなっている。国内各地は元より、すでに5大陸を訪れた。墓参りのために飛行機に乗り、長距離列車やバスに揺られる。寝袋を持参する貧乏旅だが、かかる費用は半端じゃない。農家の手伝い、トラック運転手、雑誌原稿の執筆、墓地案内ガイド、講演などで資金を稼ぎ、貯まると墓巡礼に出る、を繰り返してきた。8年前に結婚してからは、妻と息子も味方につけて。
「墓を訪ねて三千里、なんですわ(笑)」
「あなたはなぜ墓に行かないのか」
自宅は、大阪府内の2LDKのマンション。教育機関で働く妻(47)、小学1年生の息子との3人暮らしだが、6畳の一室は2万冊を超える蔵書がびっしりの書庫と化している。リビングルームにも、書庫からはみ出した本やCDのほか、巡礼旅で買ってきたというベートーヴェンと坂本龍馬の像、チェ・ゲバラの肖像画などが置かれ、所狭しといった状態だ。そこが、カジポンの仕事場なのである。
忘れられない巡礼を教えてほしいと言うと、カジポンは堰を切ったように話し始めた。
「2000年、アメリカ・アイダホ州にヘミングウェイのお墓を訪ねようと、近くの町まで長距離バスでたどり着いたのに墓地まで行く路線バスがなかったんです。タクシーなら往復10万円以上かかると聞いて『オーノー』。しょげたポーズをしてタイマーで自分の写真を撮っていたら、突如デンマーク人の旅人が声をかけてくれた」
レンタカーを借りて観光でその辺りに行くから君を乗せていってあげよう−−と、翌日、なんと往復11時間のドライブを強行してくれた。別れ際、せめてものお礼に100ドルを渡そうとしても受け取らず「なぜなら、僕もヘミングウェイを愛しているから」と一言。
「ネットが普及してなかった頃は、海外の墓巡礼は現地での“聞き込み”が基本。大変でした」
スヌーピーの漫画「ピーナッツ」の作者、チャールズ・シュルツは2000年2月12日に亡くなったが、彼の墓を目指したのはその5カ月後。「カリフォルニア州サンタローザの自宅で死去」と載った新聞記事だけを頼りに、サンフランシスコからバスで2時間、サンタローザの町に入り、「葬式を警備した人がいるはず」と警察署へ墓の場所を聞きに行った。
「ラッキーなことに、対応してくれた警官がコピーした地図を渡してくれたんです。ところが、30分歩いてその墓地に行き2時間探しても見つからない。墓地の広場で遊んでいた子どもに聞くと『ここじゃないよ』。ドカーン、です」
とぼとぼと署に戻り、件の警官に「ユー!ミステーク!」と涙目で訴えた。調べ直してくれて「悪かった。ここだ」。もう時間がなくなったと言うと、にこっと笑って「ノー・プロブレム」。警官がパトカーにカジポンを乗せ、サイレンを鳴らして墓に急行してくれたという。
北海道・小樽の丘陵に作家・小林多喜二の墓を訪ねたのは2014年の1月だった。地元の人に付き添ってもらい、雪をかきわけて30分以上も登った。雪穴に落ちて鎖骨まで雪に埋まるという悲惨な目に遭ったが、なんとか墓にたどり着けた。
「墓石に『昭和五年六月二日建立』と書かれていたんです。多喜二は『蟹工船』で逮捕された後、わずかな期間保釈されたんですが、再逮捕、身の危険を覚悟し、その間にこの墓を建てたんだと思い、切なくなった。墓前で、多喜二が好きだったベートーヴェンの『第9』をCDでかけ、奉納供養しました」
この日、パソコンに整理した画像データを示しつつの巡礼話は一気に3時間、40人以上に及んだ。巡礼した2300人の墓のすべてに、そこに眠る人の物語があり、カジポンのタフな巡礼ストーリーがある。
「それにしても、なぜそんなにも?」と素朴な疑問をぶつけてみた。
困惑した顔つきになり、カジポンはしばらく押し黙った後、こう言った。
「じゃあ聞きます。むしろ、あなたはなぜ墓に行かないのか教えてください。不思議でならない」
「墓巡礼はするのが当たり前」と言わずもがなのこの答えが全て。カジポンにとって墓巡礼は息をすることと同じなのだ。
「みんながすごいという芸術を知らずに死ぬのが怖かった」
大阪生まれ。薬品会社に勤める父と専業主婦の母、3つ下の弟がいる家庭に育った。「僕の過去の話をする時間なんてもったいない。芸術の話をするほうが有効だから」と口が重いが、亡き父のことを少し聞かせてくれた。
製薬会社で薬の開発にかかわっていた父は、会社が薬害訴訟で告発された時、被害者団体の味方に立って内部告発を行った。そのために懲罰人事で降格し、50代で退職するまで平社員だったと。
やるせない思いを封印するかのように、父は家で酒浸りとなり、家庭不和が続く。そんな環境から抜け出すため、カジポンは高校2年で家を出て一人暮らしを始めた。言い方を変えれば、孤独を手に入れた。おかげで書物に親しむようになったのが、今に至る伏線か。
「いや、僕は家庭環境から文芸ジャンキー(中毒者)になったのではなく、10代の精神的にしんどかった頃、失恋という灰の中から文学、音楽、絵画、映画というダイヤモンドを拾ったからなんです」
高校卒業前に、美大志望の後輩を好きになり、彼女より美術に詳しくなろうと猛勉強した。「悩みがあったら、いつでも相談にのりたい」と、いわく「好きオーラ全開」の手紙を書いたものの「悩みがあります。(あなたではない)好きな人がいる、という悩みです」と返事がきて、玉砕。大学生になり、カメラ店でアルバイトしている音大生に近づきたくて「ショパン国際コンクールの歴代優勝者名と演奏の特徴」まで覚え、図書館の受付嬢に心ときめき、ありとあらゆる文学書を読んだが、両者ともにふられてしまう。
「ダイヤモンドを拾えたから、失恋に耐えられたんです。ベートーヴェンは56歳、シューベルトも31歳、ショパンも39歳、メンデルスゾーンも38歳で死ぬまで独身だった。なので、偉人たちとラグビーのスクラムを組めたような気がした(笑)」
「たとえば黒澤明監督の映画が30本あるとしたら、1本観て感動すると、寝る間を惜しんであと29本を観る」というふうにのめり込み、文学、音楽、美術の“ダイヤモンド”が共鳴しあうばかりか、映画やアニメ、歌舞伎やスポーツなどにも食指が動くまで時間はかからなかった。大学では、任意サークル「文芸研究会」を自ら立ち上げる。
「喫茶店に集まって文学を語り合うサークルだったんですが、カジポンさんのテンションはいつも高く、海外文学の素晴らしさから、藤子・F・不二雄先生のブラックユーモアまで語る語る……。ある時『ワシらもビートルズみたいなバンドを作ろう。バンド名は“コギト・エルゴ・スム”や』と言い出したんです。つまり、デカルトの命題『我思う、ゆえに我あり』を用いた哲学的なバンド名。みんな引き込まれた。“人たらし”です(笑)」
文芸研究会の後輩で今もカジポンのファンであり続ける堺紀彦(46=会社員)はそう語り、「狂気と思えるほど芸術家を好きになる熱量を持っているのが、カジポンの魅力だ」と同じく後輩の岩井茂雄さん(46=会社員)は断言する。熱量の源は何か?
「う〜ん。みんながすごいという芸術を知らずに、自分が死ぬのが怖かったんですよ」(カジポン)
「他人と違うところを見るのが戦争。同じところを見るのが芸術」
ベートーヴェンの曲は200年、シェイクスピアの文章は400年、ダ・ヴィンチの絵画は500年、社会環境やライフスタイルが変わっても延々と人々に愛され続けているのはなぜか。そんな素朴な疑問が、偉人らの生涯、作品を生み出した心境から死に様まで探求するうち「人間って素晴らしい」という声が聞こえ、雲が晴れるように解けていった。「芸術作品は、人を信じられる証拠だと確信できた」とカジポンは言う。作品を深く知れば知るほど「素晴らしい作品を遺してくださってありがとう」と伝えたい思いが強まり、さらなる墓巡礼に駆り立てられる。
「節約してお金を貯め、旅に出る。その繰り返しです、ずっと」
カジポンの熱い活動が、「文芸ジャンキーパラダイス」と題するサイトに表れている。墓参した2300人の偉人の紹介と、墓と旅関連の画像が6000枚。芸術にコミットする「おすすめ番組」の情報や自身のブログも毎日更新。
「他の全てを犠牲にして好きなことを極めている。本当にすごい人だと思います。特定の作家を対象にする研究者と比べると浅いでしょうが、紫式部もビートルズも植村直己も。あらゆるジャンルに言及できる人、あまりいませんよね」
と妻が言う傍で、カジポンはちょっと照れたが否定はしなかった。
長年の文芸研究と墓巡礼から見えてきたことは? と水を向けた。
「他人と違うところを見るのが戦争。同じところを見るのが芸術だということ」
答えは唐突だったが、かみくだいてくれた。
「例えば、アンネ・フランク。ナチスのユダヤ人迫害から逃れるためにオランダで隠れ暮らした日々を綴った日記を残し、15歳の時に強制収用所で亡くなりましたよね。彼女のお墓の前には、スペイン語やフランス語、ハングルの手紙もあったし、日本の折り鶴もあった。素晴らしい作品は時間も国境も越えて読む人に感動を与えてきたわけです。ということは、人間には他者への共感力があり、国籍や文化が違っても分かり合えるということです」
身を挺して得たカジポンの信念なのである。
カジポン・マルコ・残月(かじぽん・まるこ・ざんげつ)
文芸研究家、墓マイラー。1967年、大阪生まれ。高校時代は吹奏楽部、大学時代は文芸研究会に所属。19歳でドストエフスキーの墓参をしたのを皮切りに、尊敬する偉人の墓巡礼がライフワークとなり、29年になる。座右の銘は「どっこい生きている」。ネットサイト「文芸ジャンキーパラダイス」を毎日更新。著書に『東京・鎌倉 有名人お墓 お散歩マップ』(大和書房)。業界誌『月刊石材』に「墓を訪ねて三千里」と題するコラムを連載中。目下、墓紹介本の第2弾を執筆している。
井上理津子(いのうえ・りつこ)
ノンフィクションライター。奈良市生まれ。タウン誌記者を経てフリーに。人物インタビューや旅ルポを中心に執筆してきた。著書に『さいごの色街 飛田』『葬送の仕事師たち』『親を送る』『旅情酒場をゆく』など。
[写真]
撮影:楠本涼
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝