津波で骨組みだけ残った家、動物が入り込み廃墟同然になった家……。室内の放射線量が毎時0.23マイクロシーベルトという除染基準を上回ったままの家もある。東日本大震災に伴う福島第1原発の事故から7年。時は残酷だ。帰還困難区域を除いて、昨年春に避難指示が解除された福島県の4町村では、10カ月たっても住民の4.3%しか戻っていない。少しずつ人の姿を見かけるようになった浪江町でも、「知らない人ばかりなんですよ」という声が聞こえる。町民を、その心もばらばらにした歳月。浪江に通い、悲痛な声に耳を傾けた。(取材・文:青木美希、写真:幸田大地/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「仕方ない。家を壊すよ」
床には、プラレールやブロックのおもちゃが散らばっていた。壁の写真には、5歳の幼い男の子が笑顔で写っている。震災前に撮った写真だという。この子は、この4月で中学生になる。
子どもの父親である福島県浪江町の今野寿美雄さん(54)は、震災時のままにしてあったこの自宅を取り壊すという。
庭に手作りのウッドデッキを設け、バーベキューを楽しんだ。ホームシアターもいつか構えようと、天井にコンセントも取り付けた。
「もう帰れないからね。仕方がない」
環境省が実施している家屋解体の申込期限はこの3月30日だった。申し込みを決めたのは3月に入ってから。どうするか、どうするかと7年迷い続け、ぎりぎりになってからの決断だった。
自宅の前は既に除染され、土の上に砂利が敷かれている。除染の長期目標は、原発事故による人体の追加被ばく線量を年1ミリシーベルトに抑えること。国は「年1ミリシーベルト=0.23マイクロシーベルト毎時」としている。
今野さんが今年3月に線量を測ると、除染が終わっている自宅玄関前で0.3マイクロシーベルト以上あり、この基準値を超えていた。ウッドデッキの朽ちた場所は3.0マイクロシーベルト。室内は除染対象ではないが、屋根が汚染されているため、2階天井近くは0.7マイクロシーベルトになった。
今野さんは20年以上、福島原発で働いてきた。この家は「終の住み処に」と2002年に建てた家だ。しかし、線量がなかなか下がらないため、原発事故の後、子どもを連れて戻ったことは一度もない。そして、連れて来ないまま家はなくなる。
「ふるさと喪失だ」と今野さんは言う。
東京電力からの賠償金は、住宅ローンの残金に使い切った。今は家族3人で福島市の復興公営住宅に住む。原発の仕事にはもう戻りたくないが、「かといって50を過ぎて、やったことがない仕事をやらせてくれるところもないでしょう」。
今後の生計の見通しはたっていない。
避難先の「浪江」小学校で過ごした日々 そして卒業
二本松市は、浪江町から車で1時間半ほどの距離にある。町全域に避難指示が出たため、町の仮役場は二本松に置かれ、多くの町民も避難した。浪江町立の浪江・津島の両小学校も、二本松で再開されていた。
その小学校で3月23日、卒業式があった。
2人の卒業生のうち、今野笑瑠捺(えるな)さんは小学2年から二本松の「浪江・津島小」に通った。2人が卒業すると、児童はもう3人しか残らない。笑瑠捺さんは式で、涙をぬぐいながら、在校生らに語り掛けた。
「浪江町や二本松市のみなさんとの学習で、地域の伝統や人と人とのきずなを大切にする心を学び、ふるさとが大好きになりました。これからもふるさとに誇りをもち、夢を持ってがんばります。楽しかったです。違う中学校に行っても、私たちの友情は永遠です」
笑瑠捺さんはこの5年間、二本松の「浪江・津島小」に通った。進学先は、避難先に近い中学校。この小学校を卒業した同級生は誰もいない。もう1人の卒業生は、浪江町内での4月からの学校再開に合わせて帰還し、小学校も併設する新設の「なみえ創成中学校」に通う。この学校の通学見込み者は、小学校8人、中学校2人。わずかな数だ。事故前、町内の児童生徒は約1800人に上っていた。
二本松のこの仮校舎には最大時、31人の児童がいた。4月以降も残る3人は4年、5年、6年に1人ずつ。このうち2人は兄弟なので、ここに子どもを通わせるのは2世帯だけだ。
「町外に浪江町を」の構想
児童たちが話す姿を後ろの椅子で見守る男性がいた。来賓として招かれた原田雄一さん(68)。浪江町商工会長であり、「浪江小学校を応援する会」の代表でもある。
卒業式後の「卒業を祝う会」であいさつに立った原田さんは、こんなことを語り掛けた。
「住民票が浪江町にある親を持つ子どもにとって、これから故郷はどこになるのでしょうか。私たちの愛情で子どもたちを包み込むことが“心の故郷”になり得ると思います。児童が1人になっても応援していきます」
そして取材にはこう言った。
「(この卒業式は)いまの浪江の姿そのものじゃないか。こうならないように、もっと頑張りたかった。できることはいっぱいあったんじゃないだろうか」
原田さんは、浪江町中心街にあった時計店の3代目だ。「これは原田で買った」
「おれも原田で買ったことがある」が町民の自慢になる店だったという。原発事故後は、妻と母親と共に二本松市へ避難。長男夫妻は東京や千葉を転々とした後、親戚がいる茨城県つくば市に落ち着いた。
二本松に避難してからは、明治時代から続く祭り「十日市」をJR二本松駅前で開いたり、浪江小学校を応援する会をつくったりした。学校側から「伝統の太鼓を教えたい」という声を聞くと、東京のロータリークラブに依頼して、締め太鼓を寄贈してもらった。早稲田大学の教授や学生を呼び、子どもたちに未来の浪江の模型を作ってもらったこともある。
そうした中、事故から1年後に浪江町は「復興ビジョン」を作り、「分散している避難状況を改善するために、集約した『町外コミュニティ』で誰もが安心して暮らせるようにしていきます」と打ち出した。復興公営住宅の整備、生活関連サービスや商業機能の充実。それらを2014年3月までに整備する、という内容だ。
原田さんらは、避難者が多い二本松市と福島市で「町外コミュニティ」をつくれないかと考え、自らも動き始めた。2015年6月に福島市長と面談すると、「市長は『福島市浪江区をつくってもいい』とまで言ってくれました」と原田さんは言う。
福島市内などで自ら土地を探し、そこに新たなふるさととして「浪江」を残せないか。行政に頼るばかりでなく、自分たちの力で少しでも前進させたい。そんな試みを続けたのである。
だが、この7年の間に風向きは変わってきた。町長は2015年11月の町長選では「浪江は一つ」と強調し、帰還政策を推し進めるようになった。そして、事故から1年半後の町復興計画に盛り込んだ「町外コミュニティ」構想は、2017年3月の第二次復興計画で姿を消した。
それについて、町の担当課は取材に「調整が難航してかないませんでした」と答えた。
試みが実らなかった原田さんは「(最終的には)町の理解が得られなかったんです」と振り返る。そして、「町外コミュニティ」構想については、「経緯も理由も明らかにされないまま消された」と感じている。
「ふるさとはお得意様のいる所」
借り上げ賃貸住宅に住む原田さんは、これからどうするのだろう。
住宅の無償提供はだんだん先細りになっている。避難指示が出なかった区域の住民、および、2014年に避難指示解除となった田村市などの住民は、昨年3月末で住宅提供を打ち切られた。今年3月末には楢葉町の町民も打ち切りになった。
間もなく、浪江町の町民への住宅提供もなくなるだろう、そうなったら二本松市を出て、つくば市に落ち着いた長男家族のところに行くつもりだ、と原田さんは言う。5歳の孫とも一緒に暮らせる。
3代続いた浪江町の時計店は2016年に取り壊した。更地になり、今は砂利を敷き詰めてある。その後ろの自宅には、代々引き継いだ振り子時計など店にあったものを運んでいる。
――原田さんにとって、ふるさとはどこですか。
「……難しい質問ですね。ここ(浪江)であり、二本松であり……。二本松には7年間、人生の1割いたわけだから」
――これからはつくば市ですか。
「そうなると思う……。だけど、お得意様がいる所はどこでもふるさとだよ」
原田さんは、買ってもらった補聴器をメンテナンスするため、あちこちに通っている。顧客は福島県一円に散らばっており、どこにでも行く。南相馬市の復興公営住宅に住む顧客の高齢女性を訪ねると、「誰もいなくて、さみしくて仕方ない」と言われ、家に上がりこんで何時間もお茶を飲んだ。
つくば市へ行っても、福島県内を回り続けるつもりだ。
除染と帰還の狭間で、ふるさとは
浪江町が打ち出した「町外コミュニティ」は、どうしてうまくいかなかったのか。馬場有町長は、新潮社の国際情報サイト「フォーサイト」(2015年3月19日)で、こういう趣旨のことを語っている。
――福島市での町外コミュニティは、国の「特区」構想を使うことが前提だった。認められれば、さまざまな恩典があり、町の負担は軽くなる。だが、どうしても認めてもらえなかった。(この構想を進めると)復興予算の締め付けがあるかもしれない……。
ことの詳細を尋ねようと、取材を申し込んだところ、町長は昨年12月から福島市内で入院しており、取材を受けることはできないという。町議会の議長は「復興庁はいろいろなことをやると言って、結局何もやらなかった」と語った。
帰還の前提となる除染はどうなっているのか。
多くの場所で、基準値の年1ミリシーベルトまで下がっていない。そもそも、今の除染工程で基準値以下は可能だろうか。
除染が始まって間もない2012年のこと。除染問題を取材中の筆者は、除染後も線量が基準値まで下がっていない場所が散見されたため、環境省の官僚に対し、下がっていないのにどうするのかを問うたことがある。録音を聞き返すと、彼はこう話している。
「除染で1ミリまで下がるはずないでしょう。でも、『もう住めない』といま言っても誰も納得しない。『ここまでやってもダメだったんですよ』と。つまり、除染というのは、ふるさとを諦めてもらうための時間稼ぎなんですよ」
除染費用の見積もりは現時点でも4兆円を超える。帰還困難区域では、今後も数千億円とみられる国費を投入して除染は続く。
「帰れないところよりも、避難した子どもたちの学費に充てるべきです」と訴える町民もいる。実際、例えば、各大学が設けていた被災者への授業料減免制度が終了し、学費が払えなくなって大学を中退せざるを得なかった避難者の男性(25)もいる。「除染費用を生活支援に充てるべきだ」という主張も根強い。
そのいずれもが、除染でゼネコンに大量に税金を落とすのではなく、使い道を決める際は、もっと、きちんと、住民の声をくみ取ってほしい、という願いだった。
この3月下旬、浪江町に足を運ぶと、昨年11月の訪問時よりも道行く人は多くなった感じがあった。浪江町の自宅で出迎えてくれた原田さんの妻・アキイさん(65)に「人が増えましたね」と言葉を掛けると、「知らない人ばかりです」と言う。
解体事業者、リフォーム業者……。作業服やスーツを着た知らない顔ばかりが、町を歩いているのだという。それでも人影があるのは、町役場と仮設商店街周辺のほかは、町営住宅と4月開校の「なみえ創成小学校・中学校」があるエリアくらいだ。
2017年12月の浪江町調査によると、町民の半数は「もう帰らない」と回答している。一方、今年2月末現在、町の居住者は516人。そのうち100人近くが町職員で、150人以上は転入者だ。「自宅に戻りたい」と切望する高齢者だけが戻ったという家も多い、とされるが、ばらばらになった町民の、いったいどれほどが浪江町に戻ってくるのだろうか。
浪江はいま、かつての浪江とは違う姿でたたずんでいる。
青木美希(あおき・みき)
新聞記者。1997年北海タイムス入社。休刊にともない北海道新聞に入社し北海道警裏金問題を手掛ける。その後、朝日新聞社に入り、原発事故を検証する「プロメテウスの罠」企画に参加、「手抜き除染」取材に取り組む。いずれも取材班は新聞協会賞を受賞。近著に『地図から消される街』(講談社現代新書)。
取材:青木美希
撮影:幸田大地
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝