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南極から「地球や宇宙をのぞく」 50年前の“南極点到達”が開いた観測の扉

2018/03/13(火) 10:04 配信

オリジナル

アポロ11号に乗って、人類が初めて月面に到達するおよそ1年前の1968年12月19日。日本の第9次南極地域観測隊のメンバー11人が南極点に立った。日本初、世界で9例目となる陸路での南極点到達。昭和基地の対岸から往復141日、5182キロに及んだ「極点旅行」から今年で50年を迎える。日本隊はなぜ南極点を目指したのか。日本の南極観測の歴史の扉を開いたその挑戦と今に生きる意味を、元隊員や関係者の証言をもとにたどる。(ライター・今井尚/Yahoo!ニュース 特集編集部)

日本の観測隊として初、陸路による南極点到達

1968年9月28日、昭和基地の対岸から南極点を目指して、第9次南極地域観測隊が出発した。見渡す限り雪と氷ばかりの白い大地を、黒い箱にキャタピラーをつけたような4台の雪上車が轟音を立てて進む。片道約2600キロ。途中には富士山並みの標高約3800メートルの峠があり、ただでさえ気温の低い南極のなかでも最も寒い場所を通る厳しいルートだ。往復にかかる予定の期間は約5カ月に及ぶ。

雪上車で極点に向かう第9次南極地域観測隊。南極点を目指す彼らは「極点旅行隊」と呼ばれた(提供:国立極地研究所)

メンバーは隊長の故・村山雅美(まさよし)さん(当時50歳)を筆頭に計12人。機械のエンジニアをはじめ、通信、地理・地形、雪氷、地質、地震など各分野のエキスパートたちが集まった。道中で気温や標高、氷の厚さ、重力などを測定し、将来の南極観測に役立つデータを集めるのが大きな任務だった。

医師の小林昭男さん(90)は医療担当として参加した。

「私は医者として南極の環境に関心があったわけではないです。参加は村山さんがきっかけです。当時、南極を知る人であればあるほど、南極点なんて絶対無理だ、遭難すると言いました。でも村山さんの『本気で行きたい』という思いに、男として惚れたというか、この男なら一生を懸けてもいいと思ったんです」

50年前の極点旅行について話す小林昭男さん(撮影:今井尚)

ある日、小林さんは親しかった設営担当の故・川崎巌さんに打ち明けた。

「どうやら村山さん、本当に極点に行くつもりらしい。あの人を1人で死なせるわけにはいかないよ」。川崎さんも同じ気持ちだった。「分かった。じゃあ俺も一緒に行く」「もし遭難したら、最後は3人で酒を飲もう」

誰も助けにきてくれない場所

小林さんは続ける。

「医者と隊長だけは観測や運転などの個別の任務がなくてね。だから隊長の村山さんと一緒に、手が空けば、観測の手伝いだろうと雑用だろうと仕事は何でもこなしました」

極点旅行中の地磁気観測(提供:国立極地研究所)

小林さんに最大の出番が回ってきたのは9日目だった。隊員の1人がドリルに腕を巻き込まれた。

「あと数回ドリルが回っていたら死ぬところでした。誰も助けにきてくれない場所。すぐに雪上車の中で緊急手術をすることにしたんです。こういう時、やはり私は医者なんですね、隊の予定がどうなろうと関係ない。とにかく患者の命が最優先だと思いました」

この隊員は雪上車で昭和基地に緊急搬送され、なんとか一命をとりとめた。幸いその後、大きな事故や病気はなかったが、医療機関から遠く離れた遠隔地という状況に変わりはなく、緊張は続いた。

極点旅行隊のメンバーを乗せた雪上車。現在は、東京都立川市の南極・北極科学館に展示されている(提供:国立極地研究所)

「楽しみは食べること、寝ること」

南極は、のちの1983年に最低気温マイナス89.2度を観測した、地球上で最も寒い場所だ。雪上車は単なる移動手段ではなく、潜水艦や宇宙船のように隊員の命を守る砦となる。KD60型雪上車(全長約5.5メートル)は、厳しい南極の環境に耐えるために開発された。

雪の表面は強い風によって荒波のように波打ち、雪上車はシケた海を漂う船のように揺れる。ソリをけん引すると時速はわずか数キロ、1日40キロほど進むのが限界だ。車内は大人が満足に立ち上がることもできないほど狭い。

「楽しみと言ったら食べることと、寝ることですよ。緯度を5度進むごとに1日の休みがありました。とにかくその日が楽しみでね……」

旅の前半、隊員たちはウイスキーに入れるきれいに凍った氷を探すのに苦労し、雪で我慢していた。水を外に出せばすぐに凍ることに気づいたのは旅の後半だったという(提供:国立極地研究所)

夜には酒も飲み、マージャンを楽しんだ日もあった。小林さんは昨日のことのように思い出して笑う。

「明るく前向きでいることは、厳しい旅に大切なことでした。ドラム缶に詰めて持っていったコンクウイスキー(凍結防止のために濃縮したウイスキー。アルコール度数は50度を超える)がまずくてね」

風呂はない。パンツを替えるのも難しい。標高3000メートルを超えると、座っていても息が苦しく、少し酒を飲んだだけで苦しむ隊員もいた。

「つらいかといえばすべてがつらい日々です。でも、もともと南極点へは死ぬ気で出かけたため、どんな苦労もそれよりは楽しく感じられたんですね」

南極点へ向かう旅は長期間に及ぶ。道中、散髪することも(提供:国立極地研究所)

「ほんとうに何もないところ」

雪原を走り始めて83日目の1968年12月19日、雪原のかなたに2本のアンテナが見えてきた。近づくにつれ、建物や人影も浮き上がってくる。南極点だ。

当時、南極点には既にアメリカの「アムンセン・スコット基地」が開設されており、アメリカの観測隊や空路で先回りした日本の報道陣が小林さんたちを待ち構えていた。

ここまで2570キロ。陸路での到達は日本初、世界でも史上9例目だ。

その瞬間を小林さんはこう振り返る。

「あれほど目指してきた場所でしたが、着いてみれば、ただ本当に何もないところでしたね。これから続く長い帰路を思えば、浮かれた気にはとてもなれませんでした」

南極点のアムンセン・スコット基地に着いた日本隊(提供:国立極地研究所)

1912年、南極点に到達しながら帰りに全滅したイギリスのスコット隊の悲劇が小林さんらの脳裏をよぎる。

南極点は彼らにとってあくまで中間地点。隊長の村山さんは「行きはよいよい、帰りは怖いぞ、あと半分だ」と隊員に向けて声を掛けたという。

日本隊は南極点で数日を過ごした後、1969年2月15日、昭和基地近くの終了地点に無事、帰投することになる。

未知の大陸だった南極

なぜ人は南極を目指すのか。

元国立極地研究所所長の渡邉興亜(おきつぐ)さん(77)は「実は南極大陸の形がはっきりわかったのは1946年以降です。人類はつい最近まで南極についてほとんど知らなかった」と言う。

元国立極地研究所所長の渡邉興亜さん。南極OB会としての活動も行う(撮影:塩田亮吾)

南極観測への各国の関心が高まったのは、第2次世界大戦後の1950年代のことだ。

「南極の内陸については、ほとんど分かっていませんでした。そこで世界各国が参加するIGY(International Geophysical Year、国際地球観測年)では、特に南極の内陸域を重点的に調べようと各国が沿岸部に基地をつくった。そこを拠点に内陸調査を始めたんです」

しかし当時、第2次世界大戦敗戦国の日本が国際社会と協調して南極観測を行うことに対して、一部の戦勝国からの反発があった。日本の南極観測参加は、アメリカやソ連の支持を受け、1955年にIGYで認められることになる。渡邉さんは「当時の日本の科学者にとって、南極に行くということは国際舞台に復帰することでもあった」とその意義を振り返る。

第1次南極観測隊を乗せた観測船「宗谷」(提供:国立極地研究所)

1956年、日本の南極開始を告げる第1次南極観測隊を乗せた観測船「宗谷」が南極へ向けて出発。翌年、昭和基地を構えた。ところが、当初は一時的なものを想定していたため、観測態勢はまったく不十分だった。

「とくに宗谷は戦前に建造された船で、耐氷船ではあったが、氷を割って進む能力は十分ではなかった。昭和基地を建設できたのも、いま思えば奇跡的です」と渡邉さんは言う。その後の隊では昭和基地に近づけず、船から基地に向けヘリコプターで人や物資の輸送を行ったが、そのパイロットも不足していた。

日本の南極観測は開始から6年足らず、1962年の第6次隊をもって中止される。

「宗谷」のあと、南極観測船として活躍した「ふじ」。手前にペンギン(提供:国立極地研究所)

声をあげた村山隊長

南極観測の再開に尽力したのが、のちに「極点旅行隊」を率いた村山さんだった。知りうる限りの政治家に掛け合い、関係省庁に「南極観測の再開」を訴えた。

渡邉さんはこう振り返る。

「地磁気、電離層、雪氷など地球科学観測の重要性から南極観測再開・継続の意義をいくら一般の人や役人に話してもなかなか理解されないでしょう。でも村山さんはそのとき『南極点を目指す』という分かりやすい目標を掲げたんです。これならきっとメディアや世論も乗るだろう。そういうことが直感的に分かる人だったんだと思います」

第2次世界大戦が終わっておよそ15年。世界はヒマラヤの未踏峰へ、極地へ、そして宇宙へとフロンティアをしきりに追い求めていた時代だった。人々はそうした未知の世界を「制覇」することに夢中になっていた。

極点旅行中の昼食。写真中央の眼鏡を掛けた人物が、極点旅行隊で隊長を務めていた故・村山雅美さん(提供:国立極地研究所)

「南極点へ行くべきだ」。村山さんの粘り強い訴えはついに日本学術会議、文部省(現・文部科学省)、政治を動かした。1963年に南極事業の再開が閣議決定され、新しい南極観測船「ふじ」が1965年に完成。1966年には第7次隊が4年ぶりに昭和基地を再開させた。

なぜ"南極点"だったのか?

再開された南極観測隊にとって最大の目標は村山さんの訴えた「南極点への到達」だ。だがアメリカが基地まで建てた南極点に、わざわざ陸路で行く意味はどこにあったのか。渡邉さんはこう言う。

「僕は極点旅行のおかげでその後、本格的な南極の内陸観測を始められ、長く続けられたと思っています。その後の雪上車の開発にも役立ったし、日本初の内陸基地『みずほ基地』の建設も進めることができました。さらに大きな意味があったのは、未知の世界に踏み込もうとするとき、官も民も怖がるものです。でもいったん開かれてしまえば、ブレークスルーが起きる。村山さんは南極点に到達した後に展開すべき将来を予測していたと思います。本当に大きな洞察力を持った人でした」

南極大陸の地図。日本は南極点に到達後、内陸に「みずほ基地」「あすか基地」「ドームふじ基地」を次々に建設。現在、南極で活動している59次隊は、新しい拠点づくりへ向け活動している(編集部作成)

実は当時、渡邉さんも9次隊の極点旅行隊メンバーとして声を掛けられた。だがこの時は健康診断に引っかかり、断念せざるを得なかったという。

「もちろん行きたかった。でも今となってはあの時落ちてよかったと思っています。9次隊は村山さんという大人物が率いる隊でした。一方、僕は9次隊のおかげで、後の隊で研究者として自由に観測をすることができた。まさに"人間(じんかん)万事塞翁(さいおう)が馬"(いつ幸が不幸に、不幸が幸に転じるかわからないという意)だと思うのです」

南極大陸の沿岸にある昭和基地では、今でもIGYの目的だった気象やオーロラ、ペンギンなどのさまざまな研究が行われている。一方で、南極大陸の内部では、氷床の奥深くから氷を取り出すことで、数十万年前の地球環境を知るための研究が行われている。

「南極には地球上の氷の9割があって、残りはグリーンランドに1割、あとほんのわずかがヒマラヤなどの山にある。雪や氷の研究にとって南極は極めて重要な場所です。雪氷の研究者にとっては、南極の内陸に入って広域を調査しなければ意味がないんです」

ドームふじ拠点での氷の掘削作業。渡邉さんは南極の内陸調査をけん引した。日本初の内陸基地となる「みずほ基地」(1970年)の建設に尽力するなど観測拠点の整備とともに、広域雪氷観測と深層雪氷コア掘削計画を進めた(提供:国立極地研究所)

日本の南極観測の成果

国立極地研究所広報室長の本吉洋一さん(63)は、計11回の南極経験を積んだ。本吉さんは南極を「地球や宇宙をのぞく窓」と表現する。

「南極で見ているのは南極大陸だけの問題だけじゃなくて、地球の過去の出来事や将来の予測。オーロラや隕石は太陽系の現象です。南極をプラットフォームにして実は、地球そのものや宇宙の姿を見ているんです」

南極点に到達した雪上車の中に座る本吉洋一さん(撮影:塩田亮吾)

これまでに日本の南極観測隊はさまざまな成果を残してきた。

例えば隕石。これまでに世界で見つかっている隕石は約6万個で、そのうち5万個が南極産だ。日本は1969年に南極のやまと山脈で9個の隕石を発見して以降、これまでに1万7000個以上の隕石を発見した。

南極では宇宙から落下した隕石が氷に閉ざされ、いわば冷凍保存されている。古代に落下した隕石が長い年月をかけて氷とともに流され、やがて地上にせり出してくる。なかには火星や月の石もあり、古い宇宙の謎を教えてくれる。

本吉さんが南極滞在中に書いた野帳(撮影:塩田亮吾)

オゾンホールを発見したのも日本の大きな功績だ。1982年、第23次隊の隊員が、南極上空のオゾン量が急激に減少していることを発見。ちょうどオゾン層にぽっかり穴が空いた状況だったため、この現象を「オゾンホール」と名付けた。オゾン層は宇宙からの有害な紫外線を防いでおり、オゾン層が減ると皮膚がんのリスクが高まるとされる。オゾンホールの発見はのちに、オゾン破壊物質のフロンガス規制につながった。

これからの南極観測

南極点到達から50年の月日が流れた今、南極観測隊は南極点を目指した時代のような探検の舞台ではなく、完全な科学研究の場になった。南極観測隊に参加した人の数は同行者を含め3000人を超え、今では小学校の先生や理系ではない社会科学の専門家も参加する。

本吉さんは言う。

「南極観測隊に探検の要素が強かったのは9次隊ごろまでではないでしょうか。でも僕は今でも、誰も行ったことがない場所に行って観測すること自体、探検だと思っています。自ら現場に行かないと得られないデータがある。オゾンホールも南極隕石も、南極に行かなければ見つからなかった。南極ではまだまだ人間が知らない未知の現象が見つかると思います」

科学的意義を考えれば、もう二度と日本の南極観測隊が陸路で南極点を目指すことはないだろう。だが未知の物や場所に対し、そこに行きたい、見たい、触れたいと思う人間の願いが、いかに新たな地平を開いていくか、50年前の挑戦から今も感じずにはいられない。

小林さんの自宅には、今も「JARE-9」の標章がかけられていた(撮影:今井尚)

小林さんの自宅には今でも「JARE-9」と書かれた手製の標章が下がっている。JAREは正式名称「南極地域観測隊」の英語名「Japanese Antarctic Research Expedition」の略だ。命を懸けたエクスペディション(探検)を経て南極点に立ったメンバーの多くは、すでに鬼籍に入り、その体験を直接聞くことは難しくなっている。

「昔のことですから細かいことはすっかり忘れました。ただこれだけは言えるのは、あの隊は村山さんがいたから成功できたんです。村山さんの南極点への思いや人格があったから、一癖も二癖もある連中をまとめることができた」

小林さんは今でも村山隊の隊員であり続けている。


今井尚(いまい・しょう)
ライター・編集者。1978年、愛知県出身。旅や冒険をする人たちを応援する非営利の出版社「旅と冒険社」を主宰する。

[写真]
撮影:塩田亮吾
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

撮影:今井尚(小林昭男さん)

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