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武馬怜子

「帰るか、帰らないか」 ―― 揺れる双葉町民6千人

2018/03/08(木) 10:21 配信

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「原発のまち」だった福島県双葉町の町民は今、「町に帰るか、帰らないか」の決断を迫られている。東京電力福島第1原発の事故後、町は放射能に汚染され、ほぼ全域で居住が制限されたが、2022年春が「帰還開始」の時期と定まったからだ。政府や町はそれまでに家屋の除染やインフラ整備などを進め、新しい町をつくるという。(武馬怜子/Yahoo!ニュース 特集編集部)

移住先は「空が狭い」

この1月、昼過ぎに自宅を訪ねると、武内敏子さん(87)は居間にいた。1年ほど前に会った時と同じような姿勢でソファに座っている。栃木県宇都宮市の郊外。原発事故で双葉町を追われ、今は孫夫婦と一緒に暮らす。

武内敏子さん。居間には2015年10月に亡くなった夫・義男さんの遺影(撮影:武馬怜子)

事故直後から約6カ月間は埼玉県北部の加須市にあった廃校・旧騎西高校に避難していた。校舎には双葉町の住民約1400人が避難。役場機能もそこに移され、一時は校舎が丸ごと双葉町になった。

その後、同県羽生市でのアパート暮らしを経て、3年ほど前から宇都宮に移った。「孫に(幼い)子どもがいるし、汚染された土地に帰るのは嫌」と言い、宇都宮に永住するつもりだという。

埼玉県加須市の旧騎西高校。多くの双葉町民が避難していた=2014年1月(撮影:武馬怜子)

2年余り前には、89歳だった夫の義男さんをこの宇都宮で亡くし、日中はソファに座っていることが多くなった。買い物や身の回りのことは孫たちがしてくれる。隣近所の家が近く、空はわずかしか見えない。

「夕方、狭い空を見てたら、だいだい色になったり、黄色くなったり、そうすると、やっぱり思うんだよ。ああ、こんなところに来てしまったんだな、って。いつもそう思って」

「そんなにすぐには決められない」

武内さんは今、町からの「双葉に残した家をどうしますか」という問いに対し、答えを考えあぐねている。

原発事故後、双葉町の中心部などは町民の居住を制限する「帰還困難区域」にすっぽりと入っていた。住民は今も町外に散らばり、現地には1人も住んでいない。

その後、2017年5月に「改正福島復興再生特別措置法」が成立し、居住を可能にする「特定復興再生拠点区域」をおおむね5年以内、すなわち2022年春までに設けることにした。それまでに政府や町は、民家などの除染を徹底し、「まちなか再生ゾーン」「耕作再開モデルゾーン」などを整備していく。町の計画によると、「まちなか――」は放射性廃棄物を集める「中間貯蔵施設」予定地に隣接している。

武内さんは自宅付近の地図を描き、説明してくれた(撮影:武馬怜子)

新しい町の整備には、町内に残る家屋や土地などをどうするかの判断が必要になる。武内さんもその「回答」を迫られている1人だ。

「3代、4代過ぎてしまえば、(自宅が)町のものになろうが、国のものになろうがどうってことない。でも、今すぐ決めてください、って言われても『はい』って言えないわね。その気持ちにならない。だからそのまま」

部屋の隅には黒いタブレット端末がある。各地に散らばった町民に行政情報などを的確に伝えようと、2014年度に始まった町の「ICTきずな支援システム導入事業」によって貸与された。

武内さんは「年寄りには全然、役に立たない。使わない」と言う。使い方を覚えたとしても、90歳間近の身にすれば、複雑な復興再生計画を読み取ったり、財産の行方を考えたりする作業は楽ではなさそうだ。

部屋の隅のタブレット端末。電源は切れたまま(撮影:武馬怜子)

武内さんは紙に地図を描いてくれた。

「ほら、(自宅の)こんな近くまで山がきてる。私のとこだけ(家屋を)除染しても、山を除染しないと意味ないでしょ? 7年も経つのよ。もう、自分の町ではなく、人様のことみたいですよ」

こんなことも口にした。

「自分から被災者だと言ったことない。病院で言われたことはあるけど、自分では言わない。あの人は避難民よ、って末代まで言われると思うし」

双葉町「住む住まないは一人ひとりが決めること」

双葉町の役場事務所はいま、いわき市の植田地区にある。JR常磐線の「いわき」駅から水戸方面へ四つ目。日中は1時間に1本のローカル列車しか止めまらない駅を出て、徒歩5分ほどで役場に着く。

いわき市にある双葉町役場(撮影:武馬怜子)

この1月末、双葉町の人口は6073人だった。帰還開始から5年後の帰還目標はその4分の1の1400人。実際にはどれだけの住民が町に戻るだろうか。それに向けた環境整備は十分だろうか。

復興担当の職員は言う。

「(町民)全員の話を聞いて全員に納得してもらうのは難しいです。町づくりは、完全に直接民主主義でできるものではありません。非常に難しい。でも、『俺の意見が反映されていない』と言って怒る人も、まずいないと思います」

担当職員が示した資料。「やはり数字に目がいきますよね」と職員(撮影:武馬怜子)

職員は続けた。

「2022年春に避難指示が解除になっても、住む住まないは一人ひとりが決めること。行政としては『戻りたい』という人がいる限り、受け皿づくりはしないといけないんです」

「説明会」で町民の不満噴出

5年後の双葉町をどんな姿にするのか。その「復興再生計画」が政府に認可されたのは、2017年9月である。3カ月後の12月には、いわき市で町民向け説明会も開かれた。集まった町民は100人余り。行政側からは町や環境省の職員らが出席した。

茨城県古河市から1人で参加した大沼勇治さん(41)は、説明会の様子を全部録音している。「町民からは不満しか出てないですね。『除染をしてくれてありがとう』『よかった』という人はいません」と振り返る。

車で双葉町へ向かう大沼勇治さん(撮影:武馬怜子)

録音によると、行政の担当者は帰還の前提となる除染について「除染した家屋は解体できない、除染後の公費による解体は受け付けない、除染しても必ず住めるようになるわけではない」という趣旨を説明している。

それに対し、住民からは「(以前の説明会で)その説明はなかった」「自分の家を壊すかどうかなんて簡単に判断できるはずがない」といった声が噴出している。

「過去から目をそらすなら町ごと消してくれよ」

かつて、双葉町の目抜き通りには「原子力 明るい未来のエネルギー」というゲート型の看板があった。その標語を考えたのが大沼さんである。

「原発PR看板」は2016年 3月に完全撤去された(撮影:武馬怜子)

看板は2016年3月、老朽化を理由に撤去され、旧双葉町役場の倉庫に「保管」されている。昨年12月、大沼さんと一緒にそこへ足を運ぶと、看板は錆びて茶褐色になり、鉄くずの塊のようになっていた。屋根があるとはいえ、野ざらしに近い。

大沼さんは一時期、原発誘致の結末を示すモニュメントとして、この看板を元の場所に残すよう署名活動をしていたことがある。

「看板がなくなって(今では看板のない)景色がなじんでますから。町民を帰還させるのに、その看板がどこにも展示されていない、というのはなんか違う。(原発で栄えた)町の過去から目をそらすなら、それなら町ごと消してくれよ、って」

原発PR看板が保管されている倉庫。それを背に「これが保管と言えるんですか」と大沼さん(撮影:武馬怜子)

大沼さんも“世間の目”でつらいことがあったという。

「お金の面で優遇されてると思われている。嫌われている。事故を起こしたのは東電なのに……。携帯を替えただけで、あれこれ言われる。レクサス、ベンツに乗ってると思われているんでしょう」

子どもたちへの中傷をネットに書き込まれたこともあった。「恐ろしいよ」と大沼さん。悪いことをしたわけでもないのに、隠れて暮らすかのような日々。それがもう7年も続いている。

大沼さんは現在、太陽光発電を営む。大沼さんの“発電所”はいくつもある(撮影:武馬怜子)

「家だって分かんなくなってるさ」

校舎が丸ごと避難所になった旧騎西高校の近郊には、双葉町民のコミュニティーができている。避難所の閉鎖後も、ある程度の町民がこの地に住む。一時帰宅を希望する町民のためのバスは、今も加須市から出ている。運行は双葉町で、出発はいつも早朝だ。

今は月2便ほど。震災後、しばらくはもっと多くの便があり、たくさんの人が利用した。最近は25人乗りのバスに5人の時もあれば、1人しかいないこともある。

バスでは福島弁が飛び交う(撮影:武馬怜子)

2017年11月に同乗した際、加須市の菅本章二さん(62)は行政の対応に不満を漏らしていた。

「今は(埼玉県に)双葉町長や議員が来ることなんてないべ? 選挙の時だけだ。町は県の言いなり。副町長も県から来たっていうけど、どうしようもない」。議員や町長は国や県の言うままに動く、中間貯蔵施設や除染などを受け入れてあとは知らぬふりーー。菅本さんにはそう映る。

同じく加須市に住む幾田慎一さん(69)も「国がやってるから安心、文書が来たから安心って。町はそう繰り返すけど、そうなの?」と話した。

双葉町へのバスは、いつも2回の休憩をはさみながら、常磐自動車道を北上していく。午前11時前になると、浪江町の「加倉スクリーニング場」に入る。町民はそこで、氏名や年齢を記載した受付票を係員に手渡し、白い防護服を受け取っていく。

「加倉スクリーニング場」で受け付けを済ませ、防護服を受け取る町民たち=2015年10月(撮影:武馬怜子)

スクリーニング場には、いわき市や郡山市などからも同じようなバスが来る。みんな、それぞれに防護服を着用し、家や墓など目的の地区に振り分けられ、マイクロバスに乗り換える。

こうした風景は、原発事故後何年も繰り返されてきた。故郷へ入るための通過儀礼のようでもあり、町民は「次に何をするか」「どう動けばいいか」を体で覚えているようだった。

その日、乗り換え後のマイクロバス「2号車」には東電側職員と町民が3人ずつ乗っていた。「風強いな」と言いながら、防護服を着たままで菓子パンをほおばる人もいる。

帰るたびに故郷の姿が変わっていく。バスからそれを眺める菅本章二さん(撮影:武馬怜子)

ある男性は双葉町に戻っても自分の家が分からず、マイクロバスを行ったり来たりさせた。草や木は既に、道をふさぐように生い茂っている。バスをバックさせるのも一苦労だ。

「周りが変わってんから、家だって分かんなくなってるさ」

バスを降り、自宅があるという場所に向かう男性。草木が生い茂る山へ分け入った(撮影:武馬怜子)

意向調査で「帰らない」が6割

双葉町民は全体として「帰還」をどう考えているのだろうか。

復興庁や関係自治体は2012年から毎年、「住民意向調査」を実施している。調査対象が「中学生以上の全町民」になったり、「世帯代表者」になったりと変化しているものの、毎回5割ほどの回答がある。

今年2月に公表された最新調査によると、帰還について「戻らないと決めている」は61.1%に達した。「まだ判断がつかない」も26.1%。「戻りたいと考えている」は11.7%にすぎない。

白い防護服の高齢女性は、先祖の墓に供える花を抱えて故郷へ向かった。防護服と供花。この組み合わせは今、双葉町で当たり前になりつつある=2014年9月(撮影:武馬怜子)

同様の調査項目を初めて設けた2013年調査によると、「戻らないと決めている」は64.7%で、最新調査と同水準だった。「判断がつかない」「戻りたい」もほぼ同じ。「2022年春の帰還開始」を政府や町が決めても、ここ数年、10人に6人の「戻らない」は変化していない。

「30年後には放射能なんて低くなってるだろ?」

町民をもう1人、紹介したい。避難先の郡山市で妻と暮らす舘林敏正さん、64歳。2017年の晩秋、舘林さんは重さ5キロほどの桐の苗木を持ち、双葉町内の山に入った。自宅はその山あいにある。山道は落ち葉で黄色くなっていた。

「この木を家の庭に植えて記念樹にするんだ。何十年後かに、孫にこの木で下駄を作ってもらうんだ。30年後には(木は)大きくなってるから。その時には、放射能なんて低くなってるだろ?」

舘林敏正さん(右端)が、桐の苗木を持ち登っていく。東電側の職員が付き添った(撮影:武馬怜子)

舘林さんの自宅は「帰還困難区域」にあり、今も戻ることができない。自宅も墓も中間貯蔵施設の予定地に入っている。「東電から賠償金ももらっていないのに、家を更地にできないよ」と話す。

山の近くを走る大きな道路では、ひっきりなしにトラックが行き交っていた。ほとんどの荷台には、汚染土を入れた重さ約1トンの黒いフレコンバッグ。集積場所では、それらが積み上がっていく。今はもう、黒い小山になり、日ごとに体積を膨らませている。

――戻りたいですか。

「戻れるわけないだろ。俺の家は、中間貯蔵施設の予定地内だぞ。(隣近所は既に)更地になってる。(帰還して)貯蔵施設の前に住むのか?」

それでも、将来の望みは捨てていない。孫の代になれば、再びこの地に戻ることができる、と信じている。

10分ほどで着いた小高い山の頂には先祖の墓地があった。舘林さんが墓石に触れる。マスクをしており、表情は分からない。周りの木や実の話をするときは、マスクを外した。表情を崩しながら、この季節にはどんな実がなるかを楽しそうに話してくれた。

「孫のために植える」という桐の苗木。それを地面に置き、舘林さんはうれしそうに、周囲の植物や実の話をしてくれた(撮影:武馬怜子)

空間放射線量を示す旗。赤は「高い」、青は「低い」。福島第1原発周辺を車で走ると、しばしば目に入る(撮影:武馬怜子)

日増しに数を増していく黒いフレコンバッグ(撮影:武馬怜子)

故郷の様子を見て家路につく菅本さん(撮影:武馬怜子)


武馬怜子(ぶま・れいこ)
1980年愛知県生まれ。フォトジャーナリストの中村梧郎氏に師事。2013年から被災地をテーマに写真展を各地で開催。2014年、上野彦馬賞入選。伝統芸能や動物、ロヒンギャ難民など幅広く取材。
https://www.reiko-buma.com/

[写真]
撮影:武馬怜子

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