元プロレスラー 垣原賢人
垣原賢人(45)は、「UWFインターナショナル」などの団体で活躍した元プロレスラーである。「カッキー」の愛称で親しまれた「UWF戦士」は、2014年に悪性リンパ腫の診断を受けた。そこからまた新たな闘いがはじまった。いま、垣原は治療を経てリング復帰を目指している。仕事も食事もトレーニングも、ハードに追い込むものはできない。それでも、レスラーであり続けるための戦いを続ける。
(ノンフィクションライター・古川雅子/Yahoo!ニュース 特集編集部)
「練習したい気持ちを抑えるのがもどかしい」
元プロレスラーの垣原賢人は、今、悪性リンパ腫という「血液のがん」と闘っている。公表したのは2014年12月。大学病院の腫瘍内科で検査を受けたときは、すでに全身に転移していた。
その垣原が今年8月14日、東京・後楽園ホールで行われる興行「カッキーライド〜垣原賢人復帰戦〜」でリングに復帰する。対戦相手は、「関節技の鬼」と言われた藤原喜明。藤原も、2007年に胃がんの診断を受けて闘病した「がんサバイバー」だ。
苦しい抗がん剤治療が続いていたあるとき。ベッドに横たわる垣原の胸に、こんな思いが去来した。「そうだ、僕は、リングの上に忘れ物がある!」。1年3カ月にわたる治療を終え、現在は経過観察中だ。しかし、トレーニングを再開したとはいえ、現役時代の体とは比べものにならない。それでもリングに上がろうとするのはなぜなのか。
7月上旬、東京・港区南青山にあるトレーニングジムを訪ねた。
一定のゆっくりしたスピードでウエイトボールを頭上に掲げ、上げ下げする。 軽々と持ち上げているように見えたボールには「5.44Kg」と表記されていた。実際に持ってみるとズシリと重い。
パーソナルトレーナーの大川達也が息を合わせながらボールを上から押さえて、負荷をかけ続ける。回数を重ねるにつれ、垣原の盛り上がった上腕の筋肉がさらに膨らんでくる。
しかし、トレーニングをやりすぎると体力が奪われて免疫力が落ち、感染症にかかりやすくなる恐れがある。疲れすぎないようにという医師の助言もあり、練習は週に数度、一回あたり30〜40分と自身で制限している。
垣原は、「プロレスラーの体にはとても……。体重なんか70キロそこそこしかない。現役時代は90キロ以上ありましたから」と歯がゆさをにじませる。
「レスラーだから、放っておけばどこまでも練習したくなる。その気持ちをぐっと抑えながらトレーニングをするのは、非常にもどかしい」
それでも、垣原には明確な目標がある。8月の「カッキーライド」である。
「今はこんな体なんで、見栄とかプライドとか言っていられないから、気持ちで戦う。がんと闘っている姿のありのままを、リングで見せようと思っています」
脇の下にしこり「ゴルフボールが挟まっているよう」
垣原は1990年、18歳でプロレス団体「第2次UWF」でデビューした。その後、高田延彦が立ち上げた団体「UWFインターナショナル」などのリングで戦った「U戦士」(ファンは、UWF系のプロレスラーを畏敬をこめてこう呼ぶ)だ。身長180センチとプロレスラーとして大型とは呼べないが、闘志あふれるスタイルを支持するファンも多かった。足を大きく振り上げてから相手の足を刈り払い、背中からマットに叩き落とす「カッキーカッター」は、速さを生かした垣原オリジナルの必殺技である。
2006年に首のけが(頚椎椎間板ヘルニアによる頚椎損傷)で引退すると、「プロレスと同じくらい好き」なクワガタを仕事にしようと決めた。「日本じゅうの子どもを虫好きにし、虫目線で環境保全の大切さを子どもたちに伝えたい」とクワガタ同士の対戦イベントで全国を回っていた。
振り返れば、体の変調はあった。2014年の春ごろから疲れやすくなり、鼠径部や脇の下にしこりが増えていった。引退後もウエイトトレーニングは続けていて、脇を締めてダンベルを持ち上げる動きをしたときに、「脇の下にゴルフボールが挟まっているような違和感」を覚えたという。
自ら立ち上げた事業をなんとしても軌道に乗せたかった。イベントを企画し、売り込み、自らはマスクマン「ミヤマ☆仮面」としてショーに出演。「365日仕事のことで頭がいっぱい」だった。
その年の暮れ、ようやく近くの医院に駆け込んだところ、「見たこともないぐらい大きな腫瘍」と医師に驚かれた。紹介された大学病院の腫瘍内科で検査を受けると、すでに全身に転移していることがわかった。
血液・腫瘍内科が専門の医師、上昌広・医療ガバナンス研究所理事長によれば、悪性リンパ腫とは血液のがんであり、「いわば白血病の親戚」。血液を通して全身に広がるため、抗がん剤治療や放射線治療を行う。
垣原は当初、「R-CHOP」という、抗がん剤など5種類の薬剤を使う治療を、1クール3週間で6クール投与した。最初の1クール以外は通院で治療を受けた。
抗がん剤を投与してからは、気持ちの落ち込みが激しかったという。
「どんどん弱気になっていく自分がいました。体毛は抜け、自慢だった筋肉が見事に削げ落ちていく。鏡に映るのはまるでおじいちゃん。愕然としました」
その後は、分子標的治療薬の(がん細胞ならではの性質を分子レベルでとらえ、それを標的として効率よく作用するようにつくられた薬)「リツキサン」(商品名。一般名はリツキシマブ)単独の治療に移行した。これは、悪性リンパ腫の一部のタイプによく効き、抗がん剤治療の成績を大幅に向上させた薬として知られている。
垣原は現在すべての治療を終え、1〜2カ月に1度通院しながら経過観察中だ。
同志の献身に「ありがたいの一言に尽きる」
もう一度リングに立つ。これは、垣原が抗がん剤治療を受けていた頃に描いた夢だ。
ベッドに横たわっているとき、ふと脳裏をよぎったのは中学生の頃の記憶。同級生や先生に「長州力を倒す!」と大見得を切ってプロレス界に入った。1996年、その長州との一騎打ちのチャンスがやってきた。舞台は「新日本プロレス vs UWFインター対抗戦」(東京ドーム)。「武者震いで」迎えた試合で「コテンパンにやられて、心まで折られた」。その後、首のけがで無念の引退……。
「そうだ。僕、プロレスで忘れ物があった。もう一度リングに上がって、60代でも現役を貫いている長州力と闘ってみたい!」
むくむくと湧いてきた夢。垣原はそれを「目標」に置き換えた。ただ、引退した自分にはもう上がるべきリングがない。だったら自分の手でリングを作ろう。「森のプロレス」という屋外興行を自ら企画した。
今年3月には、東京・新宿中央公園の同興行で桜庭和志とのエキシビションマッチを予定していたが、雨天で泣く泣く中止に。けれども、垣原の復帰を応援する大日本プロレスの関係者が動き、8月の興行「カッキーライド」に結びついた。
対戦相手の藤原は、垣原が新生UWFに憧れて四国から上京し、道場に通い詰めていたときに、「坊主、根性あるから入団テストを受けに来い!」と声をかけ、プロレス界に入るきっかけをくれた「大恩人」だ。
その藤原のこと、このイベントの実現のために募金活動で街頭に立ってくれた同志たちのこと。インタビュー中、彼らの献身に言及すると、垣原はこみ上げて言葉を詰まらせた。
「ありがたいの一言に尽きます。マット界に恩返しがしたい」
2年前の2015年8月18日、UWFの同志たちが、治療に励む垣原のために後楽園ホールで応援大会「Moving On〜カッキーエイド」を開いた。満員の会場に巻き起こった「カッキー・コール」を、垣原は今でも忘れない。
「あのとき、細胞レベルで元気になっているような感覚でした」
リングに上がることは、自分にとってのもうひとつの治療。その姿を誰かに見てもらい、誰かが元気になってくれれば、癒やしのリレーになる−−。垣原の脳内には、そんなビジョンが確固として描かれているに違いない。
(文中敬称略)
垣原賢人(かきはら・まさひと)
元プロレスラー。1972年、愛媛県生まれ。1990年に第2次UWFでプロレスデビュー。翌年UWFインターナショナル設立に参加。同団体解散後は、キングダム、全日本プロレス、ノア、新日本プロレスなどを渡り歩く。2006年現役引退。引退後は昆虫イベントの事業を立ち上げ、自ら昆虫キャラクター「ミヤマ☆仮面」として活動。2014年、悪性リンパ腫罹患を公表。2015年8月東京・後楽園ホールで応援大会「Moving On〜カッキーエイド〜」が開催された。
古川雅子(ふるかわ・まさこ)
ノンフィクションライター。栃木県出身。上智大学文学部卒業。「いのち」に向き合う人々をテーマとし、病や障害を抱える当事者、医療・介護の従事者、科学と社会の接点で活躍するイノベーターたちの姿を追う。著書に、『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著。朝日新書)がある。
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撮影:高橋宗正