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宮坂樹

「東電は許せない。しかし…」 震災・原発事故から6年 福島の浜で

2017/03/09(木) 15:52 配信

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東京電力の副社長が泣いていた。2月3日、東京・内幸町の本社応接室。福島の、ある被災者に話が及んだ時だった。「すみません…。上野さんの話をすると、つい込み上げてしまって」。福島復興本社代表を務める石崎芳行副社長(63)は、鼻をすすって息を整えた。「上野さん」とは、上野敬幸さん(44)のことだ。南相馬市沿岸部の萱浜(かいばま)地区で農業を営んでいる。副社長はなぜ泣いたのか。東日本大震災と原発事故から間もなく6年。加害者と被害者という立場だけでは計りきれない事情を知ろうと、人々を訪ね、福島を歩いた。(Yahoo!ニュース編集部)

「何だ、これは」 名刺を捨て

石崎副社長は、上野さんに初めて会った時のことを鮮明に覚えている。震災から2年後の2013年3月。復興本社の代表として、福島に居を移して2カ月が過ぎた頃だった。「知人からぜひ会って欲しいと言われまして」。萱浜を訪ねると、自宅前に上野さんが立っていた。1階は津波で破壊されている。

東電本社で取材に応じる石崎芳行副社長。復興本社代表として福島に住む(撮影:中野幸英)

名刺を差し出すと、上野さんは「何だ、これは」と言い、それを投げ捨てた。

「ご挨拶と、お話を伺いに参りました」。そう口にすると、上野さんの腕がブルブルと震えているのが目に入った。「殴りかかってくるかなと感じました。それほどの鋭い目、表情をされていましたから」

自衛隊も警察も捜索に来ない

上野さんは家族4人を津波で亡くしていた。父の喜久蔵さん(当時63)、母の順子さん(同60)、それに8歳だった長女の永吏可(えりか)さんと、3歳だった長男の倖太郎君。母と長女は震災の2日後に遺体で見つかり、父と息子の2人は行方不明のままだった。

上野敬幸さん。自力で捜索を続けてきた(撮影:宮坂樹)

原発事故直後、原発から22キロの萱浜地区には、政府による「屋内退避指示」が出された。そのため地区に自衛隊や警察が捜索に入ることはなく、上野さんは家族や行方不明者を自力で捜すしか術はなかった。

「あんたをずっと見てる」

名刺を捨てられた後、石崎副社長は、被災した自宅の隣の新居に呼ばれた。仏壇の前で約2時間。正座したまま、上野さんから怒りの言葉を浴び続けた。

上野さん宅の仏壇には4人の遺影が並ぶ=上。子どもたちのズック靴=下。小さい方は倖太郎君のもの(撮影:宮坂樹)

上野さんの母と娘は3・11の2週間後に火葬された。妻の貴保さん(41)は立ち会っていない。お腹に3人目の子供がおり、茨城県に避難していたからだ。放射能の影響が全く見通せない時期。妻を南相馬に立ち入らせるわけには行かず、妻は娘の骨を拾うこともできなかった。事故によって自分たち家族がどれだけ苦しめられたか──。

石崎副社長は、上野さんに返す言葉がなかったという。話の最後、上野さんは言った。「あんたがこれからどう行動していくか、俺はずっと見てる」と。

厳しい表情の上野さん。東電への怒りは今も消えない(撮影:宮坂樹)

「嘘つきやがったな」

原発事故は、津波犠牲者の捜索を事実上不可能にした。自衛隊や警察が現地に入れなかったからだ。東電本社で取材に応じた石崎副社長も「遺体捜索、救出を含め、原発事故が阻害要因になってしまった。本当に申し訳ないと思います」と話す。

2010年までの3年間、石崎氏は福島第2原子力発電所の所長だった。その間、地元に多くの知り合いができたという。

震災当時を振り返る石崎副社長。「日本の原発は安全だと信じ切っていた」と言う(撮影:中野幸英)

事務畑だったこともあり、原発と間近に向き合ったのは第2原発の所長になってからだ。巨大システムを改めて理解する中で、科学と技術の集積に圧倒されたという。原発の安全性を信じ込み、「地震が起きたら発電所の中に逃げてきてください、ここが一番安全ですから」と住民に声を掛けていた、と振り返る。それが一変した。事故直後から福島県内の避難所を詫びて回る役割を担うことになったからだ。

除染廃棄物を詰め込んだフレコンバッグ。事故直後から少しずつ積み上がった。2016年11月、福島県大熊町で(撮影:宮坂樹)

「寒い時でしたから、体育館などの避難所では、みなさんダンボールを敷いて、毛布にくるまって。惨たんたる状況でした。(避難者も)知ってる人ばっかりで」。原発は安全です、と自ら伝えた住民たち。その1人に「嘘つきやがったな」と言われたことを石崎氏は忘れられない。

「逃げられない、と。そう思いました」。石崎氏はそれ以降、呼ばれたら、どこにでも極力出向くようにしているという。除染や清掃活動、住民の会合、原発の勉強会。「東電の制服は見るのも嫌」という住民がいる中、いつも必ず青い制服を着た。

東京電力の青い制服。左胸には社名の頭文字で「TEPCO」(撮影:中野幸英)

「東電の社員である限りは、堂々と『東電です』と名乗った上で、お詫びをし、誠意を尽くす。それをやらない限り、東京電力の存在は絶対に許されないと思っていますから」

原発から3キロ 大熊町の海岸で

福島第1原発は大熊町にある。今も「帰還困難区域」に指定され、立ち入りには許可が要る。津波に家族が巻き込まれながら、原発事故の影響で自衛隊や警察が入れず、まともな捜索ができなかった─。東電に強い怒りを持つ人は、その大熊町にもいた。

養豚場で働いていた木村紀夫さん(51)。自宅は海岸から200メートルしか離れておらず、津波にのまれた。

木村紀夫さん。2017年2月、津波に襲われた大熊町の自宅跡で(撮影:宮坂樹)

政府は事故直後、原発から30キロ圏内に屋内退避指示を出し、20キロ圏内には避難指示を出した。原発から3キロの地点に自宅があった木村さんも、長女と避難を強いられた。それから約1カ月間、極めて高い放射線量の影響で、自衛隊や警察による捜索は大熊町内で行われなかった。

77歳だった父・王太朗(わたろう)さんの遺体が自宅前の田んぼで見つかったのは、49日後だった。さらに4月、自宅から40キロ離れたいわき市の沖合で見つかった女性の遺体が、DNA鑑定の結果、6月に妻の深雪(みゆき)さん(同37)と断定された。しかし、7歳だった次女の汐凪(ゆうな)さんの行方が分からない。

汐凪さん。小学校の入学式で木村さんが撮影した(写真:木村紀夫さん提供)

避難指示が出たままの現地では、自衛隊の捜索は5月末からの2週間で打ち切られ、木村さんはずっと、自力で汐凪さんを捜していた。そして、次女はいつの間にか、大熊町でただ1人残る行方不明者になっていた。

「やっから、やっから」 ゴム手袋で捜索

大熊町の海岸には今も砕けたコンクリートの塊があちこちに転がっている。津波で破壊された堤防だ。すぐ脇には、未だ手付かずの瓦礫の山が広がる。

大熊町の海岸では、今も堤防が壊れたまま。木村さんはここで捜索を続けてきた(撮影:宮坂樹)

その海岸に「福興浜団」という捜索ボランティア団体のメンバーが月に2回ほど通っている。汐凪さんの捜索を手伝うためだ。福興浜団の主宰者は、東電副社長の名刺を投げ捨てた、あの上野さんである。

大熊町の海岸に立つ上野さん(左)と木村さん(右)。一緒に浜で家族を捜す(撮影:宮坂樹)

2013年に上野さんと出会うまで、木村さんは1人で娘を捜していた。毎月1回、1日5時間だけ許されていた一時帰宅。そのわずかな時間を利用するしか方法はなかった。木村さんは振り返る。

「ボランティアは入れたくなくて、躊躇してた。でも、(誰かに手伝いを頼もうと思っても)ほんっとに、上野さんしかいない。『やっから、やっから』って言ってくれる人がね」

大熊町で捜索する「福興浜団」。瓦礫の山を人の手で掘り進む(撮影:宮坂樹)

福興浜団のメンバーは大熊町に通い、木村さんと捜索を続けた。海岸の瓦礫の山には鉄筋やコンクリート、家具などが埋まり、スコップも容易に入らない。だから、ゴム手袋をして、人の手で掘り進んだ。気の遠くなるような作業の連続だった。

「娘が見つかった喜び…湧いてこない」

そして昨年12月9日。ついに、汐凪さんの遺骨が見つかった。身につけていたマフラーに付着した、首の骨の一部だった。

汐凪さんの遺骨の発見現場。5年9カ月、ここに「置き去り」にされていた(撮影:宮坂樹)

海岸付近で土や砂を集め、調べる=上。土や砂をふるいに掛けながらの丁寧な作業。骨の一部などは絶対に見逃すまいと、ボランティアらも神経を集中する=下(撮影:いずれも宮坂樹)

あれから、さらに2カ月。木村さんの胸中は複雑だ。作業の合間に壊れた堤防に腰を掛け、缶コーヒーを飲みながら口を開いた。

「見つかった喜びは…湧いてこない。『喜ばなきゃ』って思うんですけどね。それが心から湧いてこない」。湧いたのは怒りだという。5年9カ月もの間、娘を置き去りにされた「怒り」である。

「(娘が)あそこで見つかったってことは、自衛隊が入った時に瓦礫と一緒にバラバラにされたってことなんで。それ考えたら、ひどいじゃないですか?(2011年の)3月12日に声を聞いたって言う地元の消防団員もいるし、うちの父ちゃんと汐凪に関しては、生きてた可能性もあるしね」

汐凪さんの遺骨が見つかった場所には花が供えられていた(撮影:宮坂樹)

木村さんのコーヒー缶は空になっている。それを握る手に力がこもるのが分かった。「国がちゃんと捜索してくれなかったこと。それと、そういう状況作った東京電力に…」。“怒りを覚える”と続いたはずの言葉は出て来なかった。

東電副社長に「遅いんだ!」

遺骨が汐凪さんと確認されてから1カ月後の今年1月28日、東電の石崎副社長が木村さんの元を訪れた。「お詫び」のためだという。発見現場に足を運び、花を手向け、手を合わせる。その場で木村さんは「今頃来たって遅いんだ!」と怒りをぶつけた。

汐凪さんが通っていた熊町小学校。教室は今も「3・11」のままだ(撮影:宮坂樹)

その場面を思い出したせいか、取材に応じる木村さんの口調も激しくなる。

「もう、5年遅いよね。そういう人って、俺以外にもたぶんいる。原発のせいで発見が遅れたとか、まだ見つからないとか。いるはずなんですよ。俺だけじゃない。見つかったから俺のとこに来るとか、そういうのがまずおかしい!」

被災した自宅付近を歩く木村さん。汐凪さんの残りの遺骨も見つかるよう「捜索はこれからも続ける」 (撮影:宮坂樹)

「原発の後ろ盾は、俺ら」

————なぜ、娘が置き去りにされなければならなかったのか。なぜ、原発が存在するのか。汐凪さんを捜す中、木村さんは自問自答を続けた。一つの答えは「俺ら」だったという。

「(原発の)後ろ盾って、俺らだと思うんですよ。いくら原発反対って言ったって、本当に反対するんだったら、電気使わなきゃいいんで」

木村さん自身は2012年春、長野県白馬村の一軒家に移り住んだ。暖房は薪ストーブ。電子レンジはない。可能な限り電気を使わない生活を送っている。

今年2月、東京を訪れた木村さん。明るい都会の夜景が広がっていた(撮影:宮坂樹)

「ほとんどの人は何も考えず電気使って。東京辺りに行くと明かりがいっぱいだし、24時間営業の店もたくさんある。夜遊んでる人もたくさんいる。それはそれで必要だとは思うけど、あまりにひどすぎる。俺が白馬でやってることをそういう人たちに強要はしないけど、でもね、考えてほしいなって」

空は曇り。目の前には娘の遺骨が埋もれていた瓦礫の山。

「世の中は『復興、復興』で。汐凪なんて本当に……世の中が復興してく中で、取り残された感じだしね」

海岸での捜索 あの日からずっと

東電副社長に初めて会った時、名刺を投げ捨てた上野さんは、津波で損壊した自宅の隣に新居を構えている。南相馬市萱浜地区。ここは高さ約10メートルの津波に襲われた。震災前に911人だった住民は今、207人。上野さんの新居から周囲を眺めても、遠くに数軒の家が見える以外は茶色の荒れ地しか目に入らない。

荒れ地の中にある上野さんの自宅。周囲の家はほとんど津波にのまれた(撮影:宮坂樹)

上野さんは消防団の一員として、震災の翌日からここで行方不明者の捜索を続けてきた。自衛隊や警察の助けはない。自力の捜索で地域の40人以上を見つけた。勤めていた農協を辞め、毎日捜索を続けた。田畑の側溝を掘り返し、壊れた堤防の下を覗き込んだ。それでも自分の父と息子は今も見つからないままだ。

近所に住んでいた木幡恵美子さん(54)も津波で息子の雄介さん(当時20)、夫の訓彦(くにひこ)さん(同50)ら家族4人を失った。雄介さんの遺体を見つけたのが上野さんだったという。

カフェのキッチンに立つ木幡恵美子さん。上野さんの話になると、目が潤んだ(撮影:宮坂樹)

「私は息子と夫が見つかったのでね…。まだ2人(義父と義叔母)は見つからないけど、けじめがついたような気持ちでいるんです」。その気持ちを抱き、萱浜を離れた。県内の別の土地でカフェを開き、新たな暮らしに乗り出している。

「雄介が見つかってなかったら、自分も今、上野さんのように捜していると思いますね」

完成間近の白い堤防。後背地は萱浜地区。堤防ができ、上野さんは自力での海岸の捜索が難しくなったという(福島県相双建設事務所提供)

堤防の工事を請け負う地元建設会社の石川俊社長。震災直後、社を挙げて瓦礫撤去と遺体捜索に当たった。津波で損壊した上野さんの自宅の取り壊しも行い、「上野君もつらいだろう」と話す(撮影:宮坂樹)

「家族を大切にできていなかった」

上野さんを知る人をさらに訪ねた。杉岡一宏さん(38)もその1人で、静岡県島田市の市職員。南相馬市役所に派遣され、財政課で3年勤務しているという。南相馬に来て、捜索ボランティア「福興浜団」に加わった。平日は市役所で働き、週末になると、上野さんの元に通い、行方不明者の捜索や瓦礫撤去を手伝ってきた。

南相馬市役所で働く杉岡一宏さん。「町の復興が進んできたと感じる」と言う(撮影:宮坂樹)

上野さんと間近で接するうち、気付いたことがあると言う。

「自分は娘を、本当には大切にできていなかったんだろうな、というのがあるんです」。静岡にいた7年前に離婚。4歳になる娘もいた。「上野さんのように震災で子供を亡くした方もいるけど、自分はそうじゃない。いつもすぐ側にいて、いくらでも大切にできたのに……。めんどくさくて、イラっとして……。奥さんとももっと話せばよかった」

「福興浜団」の仲間と畑を耕す杉岡さん。「上野さんに教えられることは多いです」(撮影:宮坂樹)

仕事を優先し、家族とじっくり向き合おうとしなかった日々。福興浜団の活動を通じて、それを省みる。「人と人の繋がりとか、人を大事に思うとか、人間の本質がここにあるんだなって。ここに来ることで、自分の中でそういう思いが持てるようになったんです。昔は全然そういうことなかった」

福島の大学で「原発は必要」

この2月10日、福島大学で「ふくしま未来学」の授業があった。集まった学生らは約300人。東電の石崎副社長、その名刺を投げ捨てた上野さんがゲストとして壇上に並んでいる。「あんたの行動をずっと見ている」と言った上野さんは、あれ以来、石崎副社長と接する機会が増えていた。

上野さんと石崎副社長も登壇した福島大学の授業(撮影:宮坂樹)

転機の一つは2015年7月だった、と上野さんは言う。被災者らの福島第1原発の視察。現場を見た後の質疑応答で、会場から「こんな事故を起こして原発をどう思っているのか」という質問が出た。一行の案内役だった石崎副社長は「逃げてはいけない」と思いつつ、緊張し、そして「日本にとって原発というエネルギーの選択肢を今排除するのは好ましくないと思います」と答えた。

その場にいた上野さんは激しく憤り、しかし同時にこう思った。「俺たちの前でそれが言えるって、すごい、と。内容はともかく、石崎さんは正直な人だな、と。人として信頼できる、と」

上野さん(中)と石崎副社長(右)。2人で講演会にも出席するようになった(撮影:宮坂樹)

福島第1原発は今も厳しい状況にある。

この1月には2号機で溶け落ちた核燃料の可能性がある堆積物が見つかった。東電によると、推定放射線量は最大毎時530シーベルト。遮蔽を施したものの、運転中の原子炉圧力容器内と同程度の値であり、専門的な見解によれば、仮にその間近で人が浴び続ければ「約1分で死ぬ」とされる。さらに昨年12月の経済産業省の試算によると、廃炉には今後30年以上の時間、賠償や除染も含め約22兆円の費用が必要とされる。費用はこれまでの2倍になった。何より、政府が事故直後に発令した「緊急事態宣言」は今も解除されていない。

それでも石崎副社長は考えを変えず、福島大学の教室でもこう話した。

厳しい表情で石崎副社長の話を聞く上野さん(撮影:宮坂樹)

「天然資源も少なく電力の自給率も低い日本にとって、原発は必要だと思います。ただし、原子力は『技術力があります』だけでは許されないほどのリスクを負っている。そう痛感しています。扱うには、立ち居振る舞いも含めた人間性が必要です。東京電力という会社が原発をこれからも扱う資格があるかどうかは、皆さんのご判断が必要だと思っています」

「東電は許せない。でも…」

教室の壇上で、上野さんは厳しい表情を見せていた。ところが授業後、2人は並んで写真に収まっている。笑顔もあった。上野さんは東電を許したわけではない。「東電は許せないし、憎いです。今だって嫁さんの前で社長に土下座させたい。でも、会社と人とは違うから。石崎さんのことは、人として見ようと思ってるんです」

福島大学での授業後。上野さん(左)と石崎副社長(中)は並んで写真に収まった(撮影:宮坂樹)

石崎副社長は、上野さんについてこう話した。

「あれだけの苦しみを抱えつつ、それを乗り越えて、慈悲の気持ちとか、心のありようとか、そういうものを自然に語れる、表せる人になっている。すごいなと。そういう人に『ずっと見ている』と言われているわけですから…」

「抱きしめたい。一部でもいいから」

上野さん宅の仏壇には、4人の遺影と骨つぼが並んでいた。今も見つからない息子・倖太郎君の骨つぼには衣服が納められている。

上野さん宅の仏壇には永吏可さん(左)と倖太郎君(右)の遺影(撮影:宮坂樹)

上野さんはこう言う。

「倖太郎に救われたと思ってるんですよ。倖太郎が見つかったら、自分も死のうと思ってましたから。今はもう『自分で命を』とは思わない。だから、もう出てきてもいいよって思うんだけど、出てきてくれないね。かくれんぼ、上手だったからねぇ…。抱きしめたいですよ。一部でもいいから」

3歳で犠牲になった倖太郎君、同じく8歳だった永吏可さん。どんな形でもいいから2人に会いたい。その気持ちは何も変わらない。

──でも、この6年間で何かは変わったのでは?

「それは周り。去年の熊本地震もそう。岩手や北海道の台風被害もそう。あれだけ警報が出て、なんで避難しないのか。あの震災が教訓として生かされてないな、って。東北で亡くなった(行方不明者を含む)2万人の命とか、自分の家族の命とかを、無駄にされてるような気がしてしょうがない。変わったのは、あの時の危機感を忘れてしまった周りだと思うんです」

この6年間の思いを語る上野さん(撮影:宮坂樹)

震災後、福島に関する報道は原発が中心だ。そのことにも違和感を覚えている。「原発ばかり注目されて、福島の津波のこと、命のことが忘れられているように思います」

家族や友人「いて当たり前ではない」

上野さん夫妻には、震災後に生まれた5歳の娘がいる。倖太郎君の「倖」、永吏可さんの「吏」、それに「生きる」の文字を取って、倖吏生(さりい)と名付けた。

生まれた時のことを上野さんはよく覚えている。震災から半年後の9月16日朝。2408グラムの小さな体だった。初めて倖吏生ちゃんを腕に抱いた時、「寂しくて」涙が止まらなかったという。

倖吏生ちゃん。この春から幼稚園の年長組になる(撮影:宮坂樹)

「一番楽しみにしてたのは、(犠牲になった)姉の永吏可だったので。『妹ができるんだ』って、いつもうれしそうに嫁さんのお腹を撫でてた。喜んでくれるはずの永吏可が、家族が、いないっていうのがね…。僕にはもう、永吏可と倖太郎の思い出が増えていかないんです。だから(みんなは)今ある幸せを大切にしてほしい。家族がいること、友人がいること。それって当たり前じゃないんでね。ありがとうって、伝えてほしい。自分のそばにいる人を大切にしてほしい。それが、命を守るってことにも繋がると思うんです」

菜の花の芽に肥料を撒く倖吏生ちゃん(撮影:宮坂樹)

新居の前の畑は、春に菜の花畑になる。「福興浜団」のメンバーたちが毎年手伝ってくれ、迷路状に花を抜いて「菜の花迷路」として開放する。取材で訪れた2月の週末、その畑では倖吏生ちゃんが菜の花に肥料を撒いていた。芽はまだ小さかった。

[写真]
撮影:宮坂樹、中野幸英

(3月13日修正:記事後半の福島第1原発の現状に関する記述について、表現を一部修正しました。)

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