殿村誠士

「とんねるずは死にました」―戦力外通告された石橋貴明58歳、「新しい遊び場」で生き返るまで

9/13(日) 9:45 配信

「『やっぱり俺死んでいたんだ』って。脳も全然動いていなかったんでしょうね」。石橋貴明、58歳。『とんねるずのみなさんのおかげでした』の終了以来、燃え尽き症候群になっていたという。6月、YouTubeチャンネルを開設し、息を吹き返した。「絶対負けない。27個目のアウトを取られるまで、野球はゲームセットじゃない」。お笑いに導かれた若き日、テレビと視聴率、「売れる」とは何か、規格外の笑い。40年の情熱を語り、若者世代に活を入れる。(取材・文:塚原沙耶/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース 特集編集部)

(文中敬称略)

「元とんねるずですかね?」

「『みなさん』が終わって、うーん……。ほぼ、とんねるずは死にましたよね。それだけ命をかけてやっていましたし、チャンスをもらった番組だったし、いろんな思いがすべて入っていたので。……なんか、あれからおかしかったです。やっと、YouTubeでまたちょっと息が入ったというか、呼吸し始めた感じで、死んでいましたね」

肩書を尋ねると、「元とんねるずですかね?」。『とんねるずのみなさんのおかげでした』が終了したのは、2018年3月。30年にわたる「みなさん」をまとめたDVD BOXは、終わったことを認めたくないから「たぶんこの先も開けない」という。

「子どもたち、孫たちが棺桶に入れるんじゃないですか? 燃えるのかなあ、DVDって。火葬場の人が嫌がるかな(笑)。約30年間、毎週木金、『みなさん』の収録でフジテレビに行ってたんですよ。行かなくなって、定年退職したサラリーマンの方みたいに、燃え尽き症候群で。戦力外通告されて、テレビ大好きだったのにできなくなっちゃって、つまんねーなーって」

今年6月、YouTubeチャンネル「貴ちゃんねるず」が始動する。「みなさん」で苦楽を共にしたディレクター、マッコイ斉藤から、「タカさん暇でしょ?」と誘われた。

「マッコイに『YouTubeってどういうことをやるんだ?』って聞いたら、『僕に任せてくれれば大丈夫ですよ。石橋貴明を面白くするのが僕ですから』って」

「目指せ1万人」でスタートしたが、3カ月も経たないうちにチャンネル登録者数は125万人を突破。元プロ野球選手の清原和博が出演した回は、600万回以上再生されている。毎回、視聴者からの熱心なコメントが並ぶ。

「テレビと違って面白いなと思ったのはコメントですよね。キヨさんの回なんて1万とかきてるから、読んでいると夜中の3時4時になっちゃって。『こんなふうに見てくれてるんだ』とか『こんなふうにキヨさんにあったかいメッセージ書いてくれてんだ』ってウルッときちゃう時がある」

視聴者は自身と同世代かと思いきや、意外な結果が出ているそうだ。

「(データを見たら)30歳までと30歳以上、52対48で若いほうが多かったんですよ。これは俺らに勇気を与えてくれて。娘の友達で20歳くらいの男の子たちが、貴ちゃんねるずを見てくれていると。『パパの面白いよね。伝えといて』って言われたのが、最近すげー嬉しかった話ですよね」

元気を取り戻して、アイデアが次々と湧いている。

「ここ数カ月、すっげえ脳動いています。『そうだ。次はあれを作ろう』とか、出るわ出るわ。『あっ、やっぱり俺死んでいたんだ』って。脳も全然動いていなかったんでしょうね。面白いもんですね」

思い出の「父親殴り込み」事件

「今、何とか世代って言ってるでしょ? 僕にはまったく分からなくて。『貴明さんたちは第3世代ですよ』とか言われると、『俺らはとんねるず世代だ!』つって。一喝してやります、生意気なことを言うやつらは」

今からちょうど40年前の1980年、とんねるずは誕生した。

「当時、芸人って言ってなかったような気がするんですよね。お笑いとは言っていましたけど。(僕らは)『東京のお笑い』ってことになるかな? テレビに出始めた時はただただ嬉しくて。テレビに出るって、すごいことだったので。電車に乗れば大騒ぎになるわ、近所も大騒ぎになるわ。高揚感と幸せで、胸がいっぱいになっていましたね」

石橋が初めてテレビに出たのは、小学校6年生。情報番組『アフタヌーンショー』(テレビ朝日)の企画「夏休み加藤茶大会」に、自分で電話して応募した。加藤茶が石橋の「大ヒーロー」だった。卒業アルバムには「コメディアンになりたい」と書いている。

「ちょっとあの頃に気付いていたのかもしれませんね。自分のお笑いとしての圧倒的な力を(笑)。お笑いで日本代表『アンダー12』『アンダー15』『アンダー18』ってあったら、全部選ばれているでしょうね。各世代のナンバーワンでいたと思います(笑)」

人を笑わせることにかけては、小1の頃から自信があった。

「素人の面白い子って、テレビでプロがやっていることを真似する。僕は全くそういうのをやらずに、オリジナルなことばかりやっていました」

貧乏だったけれど、両親に愛情豊かに育ててもらったと振り返る。幼い頃から、放任主義の父親に「すべてにおいて自分で責任を持て」と言われていた。そんな父親が、中学校の校長室に「殴り込んだ」ことがある。

「中学3年の時、『ぎんざNOW!』(TBS)という番組に『しろうとコメディアン道場』って人気コーナーがあって、友達と出たんですよ。下ネタばっかりの馬鹿なネタをやったんです。ところが、クラスの担任が学校一厳しい生活指導の先生で。『受験生が何をやってるんだ!』と、次の日猛怒り。それから毎日居残りさせられて」

帰りの遅い息子をいぶかって、父親が事情を聴いた。

「成人している兄貴が収録に連れてってくれてたんです。それで父親が、『学校から帰って着替えて保護者までついているんだから、そこまで学校側に言われる筋合いはない』って。校長室に殴り込みに行ったのね(笑)。父親が息子と息子の友達のために直談判してくれたこと、自分たちの自由とかについて、中3ながらに考えさせられて」

「最初はクラスメートも、『石橋すげー面白かった!』って大喜びしてたんですよ。それがホームルームで『昨日、石橋が番組に出たことについてみんなどう思うのか?』ってなったら、同じやつが『受験生なので、いけないことだと思います』って(笑)。社会の矛盾みたいなものを感じましたね。それから何カ月間か、干されるような日々を過ごし。でも、それが職業になるとは(笑)。だから、うん、親父の判断は嬉しかったですね」

(イラスト:山代エンナ、デザイン:REVEL46)

人生を変えた30万円

高校時代はひたすら野球に打ち込んだが、卒業前に出た『TVジョッキー』(日本テレビ)で、「チャンピオン」になる。

「僕は3代目チャンピオンだったんですよ。初代、2代目、3代目が出るグランドチャンピオン大会があって、圧勝して、ものの見事にチャンピオン。これで『俺が日本一おもしれー素人だ!』って」

これを最後にお笑いも卒業するつもりだったが、今度は『所ジョージのドバドバ大爆弾』(東京12チャンネル、現テレビ東京)の賞金に引き寄せられた。

「ネタをやってゲームをクリアすると100万円。当時、免許取りたてで、金がないから車が買えないわけですよ。2人1組だから『誰かいねーかな?』と思ったら、サッカー部に木梨(憲武)君がいた。百何十組オーディションに来てて、俺たちだけ受かったんです。でも、ゲームがダメで賞金はもらえなかった。これで本当におしまい。俺は4月からホテルに就職。木梨君は自動車の会社に入って整備士やると」

「サービス業に向いている」という父親のアドバイスに従い、ホテルに就職が決まっていた。ホテルマンとして生きていくはずが、やっぱりお笑いの道に導かれていく。

「『ドバドバ大爆弾』のスタッフが、『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ)のスタッフだったんですよ。ホテルで『Would you like a coffee?』とか素敵な英語をしゃべったりしていたのに、急に家の電話が鳴って『お前ら出ないか?』って。憲武とオーディションに行ったんです。そしたら演出家が、『そんなのでお前、プロになれると思ってんのか?!』って。それまでどこのオーディションに行っても『石橋君は面白いね!』って蝶よ花よだったのに。失意のどん底で、市谷の坂をとぼとぼと」

しばらくすると、『ドバドバ大爆弾』からまた電話がかかってきた。

「まー、しつこくて。『本当にあと一回ですよ』って言って。日本一面白い素人としてのプライドがあったので、今度は構成とかも考えたんですよ。そしたら数週間前にめった打ちにされた演出家の人に『よくなったじゃねえか』と言われて。『じゃあ1週間後』って。急遽、憲武も俺も有休を取って。出りゃあ、俺は素人で有名だったから、ドカンドカンウケるわけですよ」

4週勝ち抜き、5週目で落選。ここで本当に終止符を打つつもりだった。ところが森永製菓からCMのオファーが舞い込む。

「契約書をパッと見たら、1人30万円。『30万円?! ケンメリ(日産スカイラインの一モデル)の頭金になるじゃないか!』。あの時なぜ、30万で自分の人生を違う形に持っていってしまったんだろうか。忘れもしない40年前の8月15日、ホテルを退社しました」

(イラスト:山代エンナ、デザイン:REVEL46)

視聴率は「正解が見つからない」

素人のまま番組にもCMにも出ていたなら、何をもって「デビュー」とするのだろう。

「美空ひばりさんに初めてお会いした時に、『デビューして何年なの?』って聞かれて。80年に結成したので『6年くらいです』と答えたら、『もう6年間売れてたの?』。『芸能界は売れてから芸能生活ってカウントするものだから、売れたのはいつなの?』と。『雨の西麻布』で全国的になったのは85年だなと思って、『85年です』。それからデビューは85年と言っています。まあプロになったのが何年という前に、ずっと素人のままです。いまだに素人ですよ、本当に」

「チャンピオン」の称号があっても、1人で活動しようとは思わなかった。木梨憲武とのコンビについてこう語る。

「実際、実力がなかったんでしょうね。力のあるやつは1人で出てこれるんだと思うんですよ。憲武と2人でやっと一人前だった。役割分担とかは考えてはいなかったですけど、戦略面は考えていましたね。木梨憲武はアーティストで、『こういうフィールドだ』と渡しちゃったほうが力を発揮できる。どういうフィールドにするのかは、僕が考える」

2人はいわゆる下積み時代をさほど経験することもなく、人気を集めていった。

「『1杯のラーメンを2人で食いました』みたいなことも全くなく。4年くらいでバンっていっちゃうんですけど。まぁみんな夢見ている間は、苦しみだとか下積みだとか、たぶん感じないですよ。夢のほうが大きくて、麻痺してるから。だけどだんだん年齢を重ねていったり、いろいろなものが見え始めてきたりすると、やがて恐怖になり、痛みになり、ビビってきちゃうんですけど」

ビビってきたのは、まだ25、26歳の頃だった。早い成功に焦りが生まれる。

「あまりにも早くよい位置に着いちゃったので、キープしつつ前に進むには、よっぽどのヒットを出さないと。(レギュラーだった)『夕やけニャンニャン』(フジテレビ、85年4月〜87年8月)が最初面白かったのに、途中からおニャン子クラブの番組みたいになっちゃって。『おニャン子クラブが終わったら、俺らも終わっちゃうんじゃないの?』って。『とにかく自分らの番組を作らないと』と思って、ひたすら企画書を書いてフジテレビに頼んでいました」

87年に『ねるとん紅鯨団』(フジテレビ)、翌年には『とんねるずのみなさんのおかげです。』(同)がスタート。冠番組のヒットで揺るぎない地位を築いた。

「100人全員を笑わせるのは不可能だと思うんですよ。絶対、自分の感性で笑わせたいという気持ちもある。1人でも引っかかって笑ってくれたら嬉しいんですけど、冠番組だと、1%じゃダメなんですよね。最大公約数を取りにいかないと。テレビというメディアは視聴率を取らないと続いていかないので。自分のやりたい方向に何かを足さないと、ある程度の数字は出てこなくなっちゃう」

視聴率については、「やってもやっても……正解が見つからない」と語る。

「最大公約数をどう求めていくか。時代であったり、いろんなことが重なり合わないと難しい。きっかけをつかんで、雪だるま式にでかくする。自分たちだけじゃなく、スタッフの力も必要で。スタッフが同じ方向を向いているかどうか、これが一番大事。端から端まで常にコミュニケーションをとって、巻き込んでいく。みんなプロでしたから、難しい発注をしても応えてくれましたね。『頭が焼けない程度にカツラが燃えるようにしてくれ』とか(笑)」

(イラスト:山代エンナ、デザイン:REVEL46)

「浮かれる時間が短いやつほど芸能界に長く残れる」

30歳の時、倉本聰に言われた一言が今も指針になっている。

「『お前は不器用だな。でも、一生懸命やり続けるとその不器用が武器になることもあるからな。それを肝に銘じてコツコツやっていくしかない』って。一番の敵も味方も自分ですよね。怠け者だし、毎日コツコツやるなんてことができなくて。だけど倉本さんに言われた言葉があるから、もうしようがない、俺はできないんだからやるしかないんだな、って」

「感性と、コツコツやること。自分の感性に関しては誰にも負けない自信があった。例えば、瞬間瞬間に言葉をチョイスしていく感性だとか。あともう一つは、品格を持ってやること。それがないと何でもよくなっちゃう。東京っぽくないのかなって」

東京っぽさとは何だろうか。

「東京でお笑いを目指す人たちは、舞台とかを踏まないじゃないですか。そういう部分ではものすごくハンデがあると思う。どうやって関西のお笑いに対抗していくかといったら、感性だと思うんですよ。センス。どういう切り口で作っていくかとか」

今はすばらしいネタを作っている後輩がたくさんいて、拍手を送りたくなるという。しかし石橋の考える「売れる」とは、「テレビに何年いられるか」だ。

「売れると勘違いするんだよね、みんな。急にちやほやされるし、見たこともない金額を手にするし。浮かれる時間が短いやつほど芸能界に長く残れる。俺ら、意外と浮かれてる時間は短かった。『このままだとあっという間に落っこってしまうよ』と思ったから、長きにわたって時間を過ごさせてもらって」

「だけど、やがて戦力外通告。トライアウトもないテレビの世界。新しい遊び場はどこだ? あっ、ここにこんな遊び場がある! ボールを投げても蹴ってもいいみたいだよ。じゃあやらせてもらいます」

石橋にとって「笑い」とは「答えがないもの」。それでも決まって意識してきたことがある。

「テレビでいうと、見ている人が『これはこのサイズの枠から超えているよな』っていう、フレームから抜けている笑いにしたいんですよね。『うわっ、本当はもっとこれすげーんじゃねえの?!』みたいな。画面いっぱいじゃあ納得しない。テレビのサイズを壊す」

新しい遊び場はYouTube。テレビとネットの壁を壊し、自由に遊びまわっている。

「RED Chair」では椅子に揮毫(きごう)してもらう。「自分で決めたことを最後まで魂を持ってやり続けると、神様は結果を出してくれる。ただ本当に真面目にコツコツやらないと結果はついてこない。すべてのみなさんに魂はある。自分の魂を信じて、頑張ってやり続けてください。特に若いやつ。楽なほうに行かず、あえて苦しい方向に行き、魂を鍛える。帝京の補欠でもここまで来ます。秘密兵器、秘密のまんまで終わったのにね。絶対負けない。27個目のアウトを取られるまで、野球はゲームセットじゃないですよ」

石橋貴明(いしばし・たかあき)
1961年、東京都生まれ。80年、木梨憲武と「とんねるず」を結成。88年に『とんねるずのみなさんのおかげです。』がスタート。『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』『とんねるずのみなさんのおかげでした』など人気番組を次々と生み、音楽活動でもヒットを飛ばす。トークバラエティー番組『石橋、薪を焚べる』が放送中。YouTubeチャンネル「貴ちゃんねるず」で配信中。

【RED Chair】
常識を疑い、固定観念を覆す人たちがいます。自らの挑戦によって新しい時代を切り開く先駆者たちが座るのが「RED Chair」。各界のトップランナーたちの生き方に迫ります。


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