Yahoo!ニュース

御堂義乘

「理解に苦しむものはみんな化け物扱い」――闘い続ける“不死鳥”、美輪明宏の人生

2020/03/23(月) 08:01 配信

オリジナル

「死というものはないんです。ただ肉体がなくなるだけ」。美輪明宏は今年85歳を迎える。昨年9月には脳梗塞を患い、わずか2カ月で仕事に復帰。これまでも病や怪我と向き合いながら、“不死鳥”のように蘇ってきた。不屈の姿勢を、美輪は「私の“責務”」だという。原爆の記憶、ジェンダーを超えた生き方、さまざまな文化のパイオニアとしての軌跡。闘い続けてきた人生を語る。(取材・文:内田正樹/撮影:御堂義乘/Yahoo!ニュース 特集編集部)

(文中敬称略)

病やけがから這い上がる“不死鳥”

「化け物です」

「自身を一言で言い表すと?」という問いに、美輪明宏は笑顔でこう答える。かつて三島由紀夫も寺山修司も、「聖なる怪物」と美輪を評していた。

「みなさんそうおっしゃるんですよ。理解に苦しむものはみんな化け物扱いですから」

2019年9月に脳梗塞を患った。しかし幸いにも症状は軽く、わずか2カ月で仕事に復帰した。

「事務所の人たちと話していると言葉がもつれて、『すぐ病院に行きましょう』と連れていかれて。あれ、MRI検査というんですか? ガーンガンガンガンガンとものすごい音がして。ワーグナーでは困るけれど、ショパンのノクターンでも流してくれりゃいいのに。死ぬ思いでしたよ。ちょっとの間、入院して、あとはリハビリをやって。おかげさまで元気になりました」

美輪はこれまでも数々の病やけがと向き合ってきた。10歳で被爆し、長く原爆症に苦しむ。中学生の頃に肺結核を患い、40代前半にはびまん性汎細気管支炎を患った。医師から「余命3カ月かもしれない」と告げられた時期もあった。2009年の舞台公演中には右手の粉砕骨折にも見舞われた。医師から「一生、右手が使えない」と診断されるも、半年ほどで奇跡的に治癒した。

傷つき、倒れては這い上がり、“不死鳥”を宣言してきた。そんな不屈の姿勢を、美輪は「私の“責務”ですから」と、さらりと言ってのける。

「表現する力や才能をいただくということは、『それを世の中のため、人々のために役立てろ』という天からの使命ですから、お務めを果たさなきゃいけない。私のところにはいろんな手紙が来るんです。『ヨイトマケの唄』で仲直りをしたという親子もいれば、『愛の讃歌』を聴いて感動したという人もいてね。どちらもNHK紅白歌合戦で歌ったら大変な反響でした。

皆さんが心に抱える痛みを、癒やし、励ますのが私の役目。私には病人のつらさも分かれば、貧乏のつらさも分かる。一通り経験したから、人の身になって考えられるんです。神様が私の人生の設計図を描いて、『こういう経験も、ああいう経験もしなさい』と誘導されてきたような気がしています」

29歳の頃(写真提供:美輪明宏)

幼少期に世の中の基本を悟った

世代によっては、スタジオジブリの『もののけ姫』『ハウルの動く城』の声優として美輪を知った読者も多いかもしれないが、“不死鳥”は多才で、数々のカルチャーにおけるパイオニアだ。

1950年代の東京で、フランスのシャンソンを和訳詞で歌い、セルフプロデュースによるユニセックスなビジュアルで一世を風靡すると、同性愛者であることを堂々と公言した。作詞・作曲を始めると「ヨイトマケの唄」が大ヒットし、日本のシンガー・ソングライターの草分けとなった。

1954年頃、「銀巴里」で(写真提供:美輪明宏)

「常に闘いの連続でした。私が日本のファッション革命というか、『男女の性別なんて関係ない』ということで有名になると、『女の腐ったのみたいだ 』とか、まあいろいろと非難されました。普通、そう言われたら自分を責めて、落ち込みますよね。でも、私は『じゃああんたは何なの? どんな才能があるの? いくら稼いでんの? 何者でもないくせに!』という返す言葉を持っていたので、決してひるみませんでした。

人間は、一人ひとりが違っていて当たり前でしょう。この世の中で、同じ種類のものがありますか? 動物も植物も何もかもそう。どうして人間だけが、『同じでなきゃいけない』という考え方をするんでしょう。傲慢ですよ。ヒトラーはゲルマン民族だけで地球を統一すべきと、600万人ものユダヤ人を殺しました。そういう自然の法則に逆らうことをしたから、自分もあんなひどい死に方をしたわけです。法則に反したから、罰が当たったんです。

そういう世の中の基本を、小さい時に悟りました。だから『変わっている』と言われても『変わっていて当たり前』だと思っていました。そういう基本を頭の中に入れておけば、少々のことでたじろがずに済むんです」

そうした基本や法則の原点は、繁華街で送った幼少期にある。美輪は1935年、長崎で生まれた。生家は料亭や風呂屋、カフェなどを営み、近くには遊郭があった。

2歳の頃(右から2人目、写真提供:美輪明宏)

「長崎には国際都市の歴史があります。私の生まれは昭和10(1935)年ですから、軍国主義になる以前で、いろんな国の人たちが雑居していました。うちのカフェというのはバーとキャバレーが一緒になったぐらいのスケールの水商売。ロシア革命から逃げてきたロシア人の娘さんをホステスとして雇っていたりしてね。国際的な男女の悲劇や喜劇を見てきました。ファッションもお国ぶりそれぞれで、人種差別なんてものもありませんでしたね。

お風呂屋さんで、立派な身なりの紳士はさぞかし立派な裸かと思っていたら、もう気の毒になるぐらい貧相な体をしていらしたり。その逆に、もう入ってきただけで臭う、何年も洗っていないような野良着の女性が裸になると、マイヨールの彫刻みたいな素晴らしい体だったりする。遊郭も、夏なんか窓も開けっ放しで色事を見せられて。

だから、『着るものなんて嘘っぱち。この裸のままが本当の人間だ』『容姿、容貌、年齢、性別、国籍。着ている物や持っている物、目に見えるものなんて見なさんな』となっていく。見えないものを見る。心や品性こそが重要なんだという意識が自然と芽生えました」

しかも、家の前にはおあつらえむきに楽器とレコード店まであった。

「クラシック、ジャズ、シャンソン、タンゴ、流行歌、童謡。ありとあらゆる音楽のレコードが聴けました。戦時中、軍歌以外は全部禁止になった悲しみも、そこから解放された時の喜びも知っています。私のレパートリーが広いのはそのせいです。しかもうちの隣が映画も上映する劇場でね。将来、『黒蜥蜴(くろとかげ)』(※江戸川乱歩の小説を三島由紀夫が戯曲化。美輪の代表作のひとつ)のような芝居をやるための下地を学べということだったのでしょうね。照明から、美術の大道具、小道具、衣装、メーキャップの仕方まで、舞台裏の仕事が全て頭に入りました」

江戸川乱歩の小説を三島由紀夫が戯曲化した『黒蜥蜴』。美輪は1968年に初めて主演し、再演を重ねている。2015年の公演で(写真提供:御堂義乘)

「外は地獄だった」原爆の記憶

10歳の夏。1945年8月9日午前11時02分に投下された原爆の体験も、記憶に深く刻まれている。

「夏休みで、宿題の絵を描いていたんです。うちの窓が全部ガラス張りになっていましてね。自分の絵が張り出された時、遠くから見たらどう見えるかと、立ち上がって絵を置いて、後ろへ下がったんです。その時、マグネシウムを100万個ぐらい焚いたように、ぴかっと光った。『え? こんないい天気に雷?』と思った一瞬、世界中の音が全て止まったかのようにシーンとした。かと思うと、今度はドカーンと、もう世界中の音を一度に集めたような音がして、家がゆらゆらと揺れて傾いた。もし後ろに下がっていなかったら、私もケロイドのやけどを負っていたでしょう。

爆音の後は警戒警報と空襲警報。お布団の手入れをしていたお手伝いさんと2人で布団をかぶってとにかくじっとして、それから兄と3人で逃げました。外は地獄でしたよ。肉がただれているんでしょうか、馬車引きのおじさんが全身ケロイドみたいに真っ赤に焼けただれて、ぴょんぴょんと跳びはねている。馬は横になって死んでいて。それを横目で見ながらとにかく逃げて……まあたくさんの悲劇を見ました」

15歳の頃(写真提供:美輪明宏)

戦後間もなく、音楽教室でピアノと声楽を習い始めると、東京の音楽高等学校へ入学した。しかし家が破産して中退。新宿駅の地下道や構内での寝泊まりを経て、進駐軍のキャンプを回り、ジャズを歌って日銭を稼いだ。

そして、銀座七丁目のシャンソン喫茶「銀巴里」へと流れ着くと、シャンソンを和訳詞で歌った「メケ・メケ」のヒットで脚光を浴びた。1957年、丸山明宏(本名)、22歳の時だった。

「私も初めは普通の男性らしい格好で歌っていたんです。でも向こうの人(外国人)のファンがいろんな雑誌を持ってきてくれて。そこに写っていたジュリエット・グレコやジャンポール・サルトルのたまり場の様子が、フランスの文化人のアジトみたいで楽しかった。なかにはとんでもない格好の人や、男だか女だか分からないような格好をしている人もいて。パリにこういうたまり場があるのなら、私の愛する銀巴里もそうしたらどうだろうかと考えたのです。

じゃあ私はどういう格好をしようかと図書館で調べていたら、徳川綱吉の愛人でお側(そば)用人だった柳沢吉保という人が、“柳沢十六人衆”といって全国から集めた美少年に華美な服を着せて歌舞音曲を仕込んでいたことを知って。それを現代風にアレンジしようと、男でも女でもない格好を始めました。髪の毛を紫に染めて、紫ずくめで銀座を歩いていたら、「銀座に紫のお化けが出る」と有名になって。江戸川乱歩さん、三島由紀夫さん、川端康成さん、遠藤周作さん、吉行淳之介さん、岡本太郎さんと錚々(そうそう)たる人たちがみえて、私のファンになってくださいました」

22歳の頃。「メケ・メケ」を歌う様子(写真提供:美輪明宏)

同性愛者だと公言した理由は

雑誌のインタビューで、自身が同性愛者であることを語ったのもこの頃だった。

「記者の方に『同性愛者なんて言っちゃ駄目だ、葬られますよ』と言われたけれど、『いいえ、書いてください。人を殺したわけでも物を盗んだわけでもありません。これは日本の古い歴史で文化ですよ』と答えました。当時は同性愛者というだけで身内にも非難され、ばれたら当たり前のように会社をクビになった。自殺する人もいっぱいいました。とにかくそれを阻止して、非難する者もされる者も間違っていると分かってもらうには、私が公言すれば、わずかでも、プライドを持って生きられる人も出てくるんじゃないかと思ったんです。するとその通り、後からそういった方がぞろぞろと現れました」

しかし世間の多くは美輪のカミングアウトに拒絶反応を示し、人気は急落。再ブレークは1966年に肉体労働者の母子の愛情を歌った「ヨイトマケの唄」の大ヒットまで待つこととなる。

「『メケ・メケ』で有名になって、経済的に楽になってきたと思ったら、父と兄がサナトリウムに入って。人気が陰って仕事もなくなって。父や兄弟たちへの仕送りのために何もかも売り払った時期もありました。作詞・作曲を始めて『ヨイトマケの唄』を歌うと大当たりして、また最高潮が来た。それが陰り始めたかと思うと、寺山修司さんがアングラ(アンダーグラウンド)舞台のお話を持ち掛けてきて、これが大当たり。その後、三島由紀夫作劇の『黒蜥蜴』も大ヒット。ところが今度は病気になった。正が来ると、その後で必ず負が来る。それが同じ分量で互い違いにやってくる。正負の法則ですね」

『毛皮のマリー』、2019年。1967年に寺山修司主宰の劇団「天井桟敷」で主演を務めて以来、繰り返し上演している(写真提供:御堂義乘)

2018年、美輪は戦後の日本でジェンダーを超え、多方面に活躍した生き方を示したことが評価され、東京都の名誉都民に選ばれた。

「一旦は辞退したんですが、『私みたいな反逆ばかりしてきた人間にどうして?』と言ったら、『満場一致で決まりましたので受けてください』と言われたのでいただきました。東京都でも区によっては同性婚も認めましょうというところも出てきて、『ああ、やっとここまで来たか』と。だいぶよくなりましたよ」

日本は文化国家であるべき

では、平和についてはどうか。戦後75年を迎える今日の日本を、美輪はどう見据えているのか。

「情けないですよ。立派な政治家が欲しいですね。だいたい日本が戦争に勝てるわけがなかった。私たちが竹やりや薙刀(なぎなた)の練習をさせられていた時、向こうは原爆を作っていたんだから雲泥の差です。それで戦争なんて、愚か以外の何物でもない。せっかく軍隊を放棄したのに、また復活させたいなんて馬鹿者もいて。冗談じゃない。

日本は、別名、大和の国っていうでしょ? 『大』きな『和』の国です。男も来い、女も来い、とにかく人間であればみんな来い。動物も来い。豊かな者も貧しい者も、きれいな者もきれいじゃない者も何でもいらっしゃい。大いなる心で和やかに輪になって暮らす国。それが大和の国です。そうじゃなくなったら、日本じゃなくなるんです」

2014年、定期的に開催している『ロマンティック音楽会』で(写真提供:御堂義乘)

そのために必要なこととは? 美輪は日本の「文化」こそが重要だと強く唱える。

「外国の人たちがうらやましがるのは日本の文化力です。元禄時代なんて、素晴らしい日本の文化が花開いた。紫式部のような女流作家が1000年も前にいて、それがいまだに読み継がれている。清少納言もそう。それから着物。日本には3000種類もの色の種類があって、風雅な名前が付けてある。そんな国、他にないんですよ。

文学、音楽、美術、スポーツといろいろありますけど、いずれも若くて素晴らしい人がいっぱい出てきているじゃありませんか。クラシック畑で優秀な人もいる。メディアもなるべく硬軟併せて喧伝をして、文化を育ててほしいですね。

武力は憎まれますけど、知力だったら尊敬されるんです。日本は文化国家でなきゃ、知力の国でなきゃいけません。武力はもうよその国に任せておけばいい。それを小学校から教えるべきです。それにはまず人柄もよく、知識や教養にあふれた、大人の見本みたいな先生が増えてほしいですね。学問だけじゃなく、一般教養とか知識とか、洗練された文化を身に付けていただきたい。生徒は教師を観察しています。最近は教員になる人が少ないというけど、尊敬されるような先生が増えれば、なり手も多くなるはずです」

人々の多くは、時に自分らしさに迷い、「自分に才能などあるのか?」と探しあぐねるものだろう。

「何もしないで『自分らしさ』と言っても、基本がないと揺らぐし、自分を責めるでしょう? そうなるよりも前に、『じゃあ、あんたは何ですか?』って切り返せるぐらいまで、己を知って、自己を確立する。まずはそれからです。自分がどういう系統に属する人間なのか? 方向が決まったら、知識と教養を身に付けて、それを揺るぎないものにしていくこと。ずっと探し続けてもいいんです。そのうち何か見つかりますよ」

美輪は2020年5月に85歳を迎える。“不死鳥”は自らの死をどう捉えているのか。

「死というものはないんです。ただ肉体がなくなるだけ。死はこっち(現世)では悲しいですよね。でも、あの世から見れば、『ああ、よく勉強して帰ってきたね。おめでとう』となっていて、それが繰り返される。仕掛けとしては、私は生命をそういうふうに思っていますけどね。やり残していること? もう十分です(笑)」

最後に聞いた。「また生まれ変わるとしたら、再び美輪明宏になりたいですか?」

「そうですね。この世だけでもいろんなことをやってきましたからね。そんな人、他にいませんからね」

インタビューの終わりに、腰掛けていた「RED Chair」に揮毫(きごう)してもらった。選んだ言葉は「光明」

美輪明宏(みわ・あきひろ)
1935年、長崎県生まれ。16歳でプロ歌手としてデビュー。1957年、「メケ・メケ」が大ヒット。シンガー・ソングライターとして「ヨイトマケの唄」などを手掛ける一方で、俳優としても活躍。1967年、寺山修司主宰天井桟敷旗揚げ公演『青森県のせむし男』、『毛皮のマリー』に主演、1968年、『黒蜥蜴』に主演。『毛皮のマリー』『黒蜥蜴』『愛の讃歌』などは繰り返し再演される。映画『もののけ姫』『ハウルの動く城』では声優を務め、トーク番組『オーラの泉』などでも活躍。2007年から公式携帯サイト「麗人だより」をスタート。『紫の履歴書』『人生ノート』など著書多数。最新刊は『ぴんぽんぱん ふたり話』(瀬戸内寂聴さんとの共著、集英社文庫)。

内田正樹(うちだ・まさき)
1971年生まれ。東京都出身。編集者、ライター。雑誌『SWITCH』編集長を経て、2011年からフリーランス。国内外のアーティストへのインタビューや、ファッションページのディレクション、コラム執筆などに携わる。

【RED Chair】
常識を疑い、固定観念を覆す人たちがいます。自らの挑戦によって新しい時代を切り開く先駆者たちが座るのが「RED Chair」。各界のトップランナーたちの生き方に迫ります。

RED Chair レッドチェア 記事一覧(12)