2019年6月に英・科学誌「ネイチャー」などを出版するシュプリンガー・ネイチャーの発表した調査報告が、日本の教育関係者らに驚きを与えた。世界の大学・大学院における自然科学分野の質の高い論文のランキングで、世界9位に沖縄科学技術大学院大学(OIST)が入ったからだ。東京大学などを抑え、日本国内でトップの評価だった。OISTは5年制の博士課程のみで、海外からの留学生が過半数を占める異色の大学院。設立からわずか8年、躍進の秘密とは。(ライター・伏見学/写真・松田良孝/Yahoo!ニュース 特集編集部)
学生の8割、教員の6割が外国人
開け放った窓から流れ込んでくる、沖縄の風。エメラルドグリーンの海の輝きがまぶしい。部屋の主、カザフスタン出身のカミーラ・ムスタフィナさん(26)は心地よさそうに猫を抱いている。
「入学してこの部屋に初めて来たとき、美しいオーシャンビューに『なんて素敵なの!』と大喜びしました」
沖縄県恩納村にある、OISTの学生寮。ムスタフィナさんは、分子生物学を専攻する博士課程5年だ。ムスタフィナさんは当初、米国や欧州の大学院進学を考えていた。
「欧米の大学院では、自国や地元エリア出身の学生には学費が全額支給されるプログラムがあるのに、私のような他国の学生は対象外でした。そんなときにOISTの存在を知り、進学を決めたんです」
OISTは学生が研究に専念できるよう、学費が無料のうえ、生活費として年額約240万円をリサーチ・アシスタントシップとしてすべての学生に支給している。彼女のような海外からの留学生はOISTでは「主流」だ。全学生205人(2019年9月時点)のうち、外国出身者は8割を超え、出身地は世界48カ国・地域を数える。教員も6割が外国人だ。
厚遇なため、競争率は高い。18年度は新入生約50人の定員に対して全世界からおよそ1500人が出願した。新任教員も、10人の枠に1500人もの応募があったという。9月に行われた入学式では、国際色豊かな新入生たちが笑顔で会場を埋めた。
「ネイチャー」調査で世界9位、東大を抜く
英国の科学誌「ネイチャー」などを出版するシュプリンガー・ネイチャーは19年6月、自然科学分野で、他の論文への引用数が上位10%に入る「質の高い論文」の割合を基準とした研究機関ランキングを発表した。OISTは世界9位となり、国内トップとなった。
「質の高い論文」の代表的なものには、エボラウイルスのコア構造を解明した論文や、ナメクジウオから脊椎動物遺伝子制御の起源を明らかにした論文などがある。同じランキングで東京大学は40位、京都大学は60位だった。
OISTは、「世界の先端を行くイノベーティブな拠点を沖縄につくりたい」という尾身幸次内閣府特命担当大臣(当時)の肝いりで、九州・沖縄サミットの翌年(01年)に打ち出された設立構想が発端だ。02年には新たな沖縄振興計画が発表され、その重点施策の一つにOISTが公式に位置づけられた。
そして「世界最高水準」「国際性」「柔軟性」「世界的連携」「産学連携」を建学の精神に、5年一貫制の博士課程を置く大学院大学として11年に設立、12年9月に開校された。
学校区分では私立大学に当たるOISTだが、運営資金のほぼ全てを日本政府が拠出する。沖縄振興予算のうち毎年約200億円ほどが割り当てられており、開学に向けた動きが本格化した05年からの累計は1990億円に上る。
通常、私立大学は運営経費の2分の1以内でしか日本政府から補助を受けることができない。しかしOISTは「特別な学校法人」という位置づけでその範囲を超える補助が受けられるため、政府資金だけで運営することが可能だ。同様のルールが適用されているのは、他に放送大学しかない。
ここまでOISTが優遇されているのはなぜか。内閣府の担当者は言う。
「沖縄の経済振興には新たな産業創出が不可欠で、その一つの柱として科学技術に多額の予算がつくことになった。アジアの主要都市が近くて活発な人材交流ができること、亜熱帯・海洋性気候特有の動植物が多く生息し関連する学術研究が可能なことなどが、科学技術に関する沖縄の優位性だ」
沖縄で科学技術を推進するには世界最高水準の研究を行う拠点が必要との考えから、OIST構想が動きだす。OISTを中心に科学技術分野のさまざまな企業や研究機関、人材などが集まり、沖縄が科学技術の一大拠点となって、そこから経済発展につながることを期待したのだ。
OISTをそうした魅力的かつ世界最先端の大学にするためには、日本人ばかりの既存の大学とは異なり、海外からトップレベルの教授や学生を数多く集めて、充実した研究環境を整備するのが急務で、政府も資金提供を惜しまなかった。
風通しの良い研究環境
OISTで教鞭を執る銅谷賢治教授は言う。
「OISTの非常に良いところは風通しの良い研究環境につきます」
銅谷教授は東京大学で博士号(工学)を取得後、米カリフォルニア大学サンディエゴ校、米ソーク生物学研究所、国際電気通信基礎技術研究所に勤務した。
「沖縄に新しい大学院大学をつくるという話を新聞などで見て、この学校は自分に合っているなと思ったんです。研究者や教授をリクルートしたり、大学設立のための文書を作ったりと、そういったところからかかわってきました。沖縄に来てもう15年になります」
意識的に取り組んでいるのは、他の研究者との交流だ。毎週木曜日の午後にはカフェテリアで「ティータイム」が設けられ、多くの学生や教授、スタッフが集うという。そこでは経歴も研究内容も関係ない。
「ティータイムみたいに皆が一堂に集まれるような機会や、インターナルセミナーといって、学生やポスドク(博士研究員)を中心に自分たちの取り組みを他のラボ(研究室)にプレゼンする場もあります。そこから新たな共同研究のアイデアなども生まれます。これは、世界的にうまくいっている大学ならどこでもやっていることでしょう。インフォーマルにアイデアを交換し合う場をできるだけ持てるよう、意識して取り組んでいます」
あえて他分野の研究も行う
研究分野にとらわれない自由な交流は、教育プログラムのなかにも落とし込まれている。学際研究である。
学際研究とは、二つ以上の学問分野を統合して横断的に進めていく研究のこと。OISTでは、学部や研究科といった概念を撤廃。分野ごとに境界線を引かず、垣根を越えてどんな研究でもできるようにしている。
学際研究の推進施策の一つが、博士課程の1年次に課す「ローテーションシステム」だ。1年次は、4カ月ずつ三つのラボに所属する。学生は興味のあるラボだけでなく、自身の研究と一見関わりのなさそうな分野のラボも選ぶことになる。
OIST開設前から運営に携わってきた、大学院事務局のハリー・ウィルソン博士は言う。
「人やその知見をミックスすることで新しいアイデアが生まれたり、科学を違う視点から見ることができるようになったりします。研究者は特定の領域にとらわれることなく、さまざまな人たちと対話ができなくてはなりません。そうでないと、変化の激しいこれからの時代に生き残ってはいけないでしょう」
入学時に研究テーマが決まっていない学生にとっては、ローテーションシステムが自分の専門性を探る機会にもなる。このプロセスを経て、専攻が変わる学生もいる。例えば、分子生物学を勉強してきた学生が、1年間のローテーションを経て、まったく異なる研究分野である量子力学に専攻を変えたケースもあった。
また、学生一人ひとりを、研究分野の指導教員だけでなく「メンター」「共同スーパーバイザー」と呼ぶ2人の教員がフォローする。指導教員の言いなりになってしまうリスクを避け、研究活動の自由度を担保するためだ。
「これら3人の教員で委員会をつくり、1人の学生の論文を見ていきます。スーパーバイザーには違う分野の専門家を据えるようにして、学際研究を促進します」
自由度の高い研究資金
研究資金のあり方にも特長がある。
ピーター・グルース学長は「OISTでは5年間、教員に対し安定的に資金を提供しており、ハイリスクな研究も可能です」と説明する。
グルース学長は、33人のノーベル賞受賞者を出したドイツの著名な研究機関、マックス・プランク学術振興協会(MPS)で会長を務めるなど、最先端の研究環境を知る人物だ。
「ハイトラスト・ファンディング」という資金の提供方法で、MPSや欧州研究会議(ERC)、米国国立衛生研究所(NIH)といった実績豊富な研究機関でも採用されているという。
「日本の大学では、日本学術振興会(JSPS)のような競争的資金を狙いがちです。競争的資金の場合、他の研究者が評価しやすい内容であることが優先され、結果的にメインストリームの研究しか採択されません。化学や物理学などの分野のノーベル賞受賞者数で、MPSは日本を上回っています。高いリスクを取って研究することが、いかに世界的に重要であるかを示す一例ですよね」
安定的な研究資金の確保は、若い研究者の育成にも大きく関係してくるという。例えば日本では、博士課程に進んでも安定したキャリアが約束されていない「ポスドク問題」などが深刻だ。
「教授の下で長く働く准教授やポスドクの人たちに、もっと自由を与えるべきでしょう。例えば、ERCは若手助成金などを提供しています。若手の研究者が、独立性を持って研究できるよう支援する必要がある」
日本の研究環境を知る銅谷教授が補足する。
「特に日本の国立大学では『この学科ではこの研究をする』というのが固定的で、そこから抜け出しにくいです。僕は工学部出身ですが、OISTでは脳科学を研究しています。計算神経科学のような学科って日本ではなかなかできないんですよね」
銅谷教授は脳科学と人工知能の融合をテーマに研究している。
凋落しつつある日本の自然科学分野の研究
日本の研究力は退潮傾向が続いている。
文部科学省科学技術・学術政策研究所の調べでは、論文生産への貢献度を見る分数カウント法で、日本は質の高い論文数(Top10%補正論文数)が05〜07年の平均4506本から、15〜17年には3927本と減少。世界ランキングも5位から9位に転落している。分野別では、数々のノーベル賞受賞者を生み出してきた化学や物理学、材料科学での低下が顕著だ。
毎日新聞社の科学技術記者として国内外のさまざまな研究現場を長年取材し、現在は早稲田大学で教授を務める瀬川至朗氏は、こう指摘する。
「04年の国立大学法人化が元凶ですよ。これによって日本の各大学は運営費交付金が毎年減り続けています。あとは自分たちで外部資金を獲得しなくてはなりません」
政府の科学技術関係予算は近年微増傾向で、19年度は4兆2377億円だったが、基礎研究の多くを担う国立大学の運営費交付金は減少の一途にある。04年度の1兆2415億円から、18年度には1兆971億円にまで減少した。
また、瀬川教授は日本の大学の縦割り組織も問題視する。
「教授が中心にいて、学生を学部から博士課程までずっと研究室に抱え込む仕組みです。教授も学生も皆、自由に横に移動できることが新しい研究につながると分かっていますが、なかなか改善できないのです」
そうした意味で、政府からの安定的な資金提供があって、かつ従来のヒエラルキー組織や研究テーマの固定化を「崩す」OISTの取り組みを、瀬川教授は「理想的」とみる。
外部獲得資金に課題残す
しかし、政府に運営資金を「依存し過ぎている」のは、OISTにとって課題だという。
17年度にOISTが獲得した外部資金は、全予算の6%に過ぎない。これは国内の大学と比べてもかなり低い水準だ。たとえば、北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)は29%、東京大学は35%、東京工業大学は50%の予算を外部資金から得ている。国もOISTに対し、外部資金調達比率のアップを求めている。グルース学長は、MPSと同等の10%を目標に掲げる。
銅谷教授も「大きな課題だ」と言う。
「今は国からの手厚い資金で運営していますが、民間からの寄付や受託研究などを含めた独自財源をどれくらい増やせるか」
日本に貢献しようとする学生たち
外国人研究者が過半数を占める研究機関に日本の税金が投入されていることは、学生側も意識している。エネルギー材料研究に従事する米国出身のコリン・ステッカーさん(34、博士課程6年)はこう話す。
「我々は日本の税金を使わせてもらって研究しています。だから沖縄や日本に少しでも貢献したい」
実際、ステッカーさんは地元高校生向けのサイエンス教室などにもかかわるなど、地元貢献に積極的だ。
さらにタイからの留学生で、学部時代を英国で過ごした生化学専攻のラチャパン・ロッラッタナダムロンさん(25、博士課程3年)もこう語る。
「OISTは日本人学生、外国人学生にかかわりなくすべての学生に対して平等で、マイノリティーにもチャンスを与えてくれる。こうした大学院は世界でも珍しいのではないかと思います」
冒頭で紹介したカザフスタン出身のムスタフィナさんは、日本語検定の合格を目指し、教科書を何度も読み込んでいた。
「せっかく日本に留学しているのだから、もっとこの国のことを知りたいし、地元の人とも交流したい」
伏見学(ふしみ・まなぶ)
1979年生まれ。神奈川県出身。記者・ライター。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修了。ニュースサイト「ITmedia」を経て、2019年5月からフリーランス。