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「死んだ海」に還る――64歳、福島のサーファーの8年間

2019/06/18(火) 07:50 配信

オリジナル

福島県南相馬市の北泉海水浴場は、日本有数のサーフスポットだった。2011年の東日本大震災によって人波が途絶えていたその海で今年7月20日、9年ぶりの「海開き」がある。それに合わせてサーフィン大会も開催される。ここで生まれ育った鈴木康二さん(64)は、どんな思いでその日を迎えるのだろうか。サーフィン歴40年。自宅と経営するサーフショップは津波で流され、震災の混乱で母も亡くした。それでも震災直後から行方不明者の捜索活動が続く海に入り続けてきた。「なぜ、海に還ろうとするのか」。その問いに対する答えとは――。(文・撮影:Wasteland Curation/Yahoo!ニュース 特集編集部)

北泉海岸で一人、波を待つ鈴木康二さん。今も行方不明者の捜索が行われる海に入り続ける

震災後、人のいない海に

鈴木さんの家とサーフショップは、北泉海岸の隣、右田浜の目の前にあった。東京電力福島第一原発から北に約30キロの場所だ。震災の前、右田浜沿いに広がる松林は子どもたちの遊び場で、近くの漁港周辺も地元の買い物客らでにぎわっていた。

いま、人影はない。

震災前に撮影された右田浜の空撮写真。生い茂る松林が印象的だ。この写真は津波に流されたものを鈴木さんが知人から譲り受けた

震災後、かさ上げされた右田浜の防潮堤。陸と海を分断するように立つ

ソーラーパネルが並び、その間をタヌキが走り回っていた。青々としていた松は一本も残っていない。代わりに目に入ってくるのは、かさ上げされた巨大な防潮堤だ。その「壁」をよじ登ると、消波ブロックに向けて強い波が打ち付けていた。

自宅があった周辺を巡ってもらった。更地となった大地には人影がなく、工事用車両だけが行き交う

還暦を過ぎても波にこだわる鈴木さんは防潮堤前の自宅跡地で、震災後の8年を「別に思い出すようなことじゃない」と振り返った。

「さんざん地獄を見た。おれにとって(震災後の日々は)日常を取り戻すというよりも、新たにつくり直すという言葉が近い。何をもって復興というのか知らないけど、もう、元通りになることはないから」

右田浜の防潮堤付近に街灯はない。夜、暗闇の中で波の音だけが聞こえた

2本のサーフボードだけが残った

震災の日。

鈴木さんは朝、自宅から車を10分ほど走らせ、北泉海岸に出た。波は小さく、サーフィンにはいま一つだったという。それでも波乗りの「日課」をこなし、その後、自身のサーフショップへ向かった。

午後、店番をしているときに激しい揺れが襲った。車に飛び乗り、高台に避難。大津波はすぐに南相馬に到達し、海沿いの街をのみ込んだ。鈴木さんの記憶では、車で逃げる途中、道路近くの川がすごい勢いで逆流していた。

鈴木さんの自宅があった地区では、70戸が全て流され、54人が犠牲になった。鈴木さんは家も店も流され、たまたま車に積んでいた2本のサーフボードしか残らなかったという。

その後の原発事故で、鈴木さんは妻を連れ、関東に逃れた。仮設住宅が完成するまでの約3カ月間、東京都や神奈川県を転々。病気だった母は転院して適切な処置が受けられなくなり、他界した。「震災関連死」と認定された。

北泉海岸では波乗りするサーファーの向こうで漁船が行き交う。8年前、漁港も大津波にのみ込まれた

鈴木さんの思い出は、常に北泉海岸や南相馬の青い海とセットになっている。

高校を出て、東京で就職したものの、勤務先が倒産。20歳で故郷に戻り、ほぼ同時期にサーフィンを始めた。「ある程度、波に乗れるようになるまでに数年かかる」と言われるなか、鈴木さんはのめり込む。もともと負けず嫌いだ。仕事が終わると、毎日のように海に通い、全日本サーフィン選手権大会の福島代表になるまでに上達した。

そして、還暦を過ぎた現在まで、毎日のように海に入り続けている。海の近くに家を建てたいという夢もかなえ、結婚後は右田浜の目の前に自宅とサーフショップを構えた。

「365日のうち360日は海に通い、200日以上はサーフィンをしている。サーフィンっていうより、何より海が大好きだった」

そういった海との日々を震災と原発事故は奪い去った。

40年以上通い続けた北泉海岸。震災直後はがれきが山積みになり、砂浜も流され地形が変わった

震災の4カ月後 ひとりで海へ向かった

東京などで約3カ月の避難生活を送った後、鈴木さんは南相馬市の仮設住宅に移った。それからは、毎日のように海の様子を見に出掛けたという。流された自宅の跡地に車を止め、誰もいない海を眺める。自身はそれを「死んだ海」と呼んだ。

妻の友子さん(64)は、あのころの夫をこう振り返る。

「人が変わったようでした。本当にサーフィンしかない人。それが突然、お店もなくして……。毎日通っていた海でサーフィンもできない。それまでは、めったに怒ることがない人でした。それが乱暴な言葉遣いになって。本人は認めないけど、うつだったと思います」

鈴木さんによると、そのころ、福島県のサーフショップ経営者が集まる会合があった。日本中が「自粛ムード」に包まれていた時期だ。その会合でも、海の安全性への懸念や被災者への配慮から「サーフィンは当面自粛すべきだ」という意見が大勢を占めた。

鈴木さんは反発した。

「このまま誰も(海に)入らなくなったら、この海は本当に終わってしまうのではないか、って。何より自分の人生が終わったような気がした。さんざん人生をサーフィンにつぎ込んできたのに、最後にこれかよ」

ちょうどその時期、知人の姿をテレビ番組で目にした。津波で家族全員を亡くしながら、国の重要無形民俗文化財に指定されている「相馬野馬追(のまおい)」に打ち込む――。その様子が紹介されていた。

「全てを失って、もう野馬追しかない、って。それを生きがいにしているのが伝わってきた。それを見ていたら『サーフィンしちゃいけない理由なんてない』と。このまま、海まで失いたくない」

再び海に向かったのは、震災から4カ月後の2011年7月である。

サーフボードを抱え、ひとりで海岸へ。自宅の跡地に車を止め、がれきを分け入り、消防隊員らが遺体と行方不明者の捜索をしている海へと向かった。

久しぶりの海は「まるで天国のようだった」と振り返る。その顔には笑みも浮かんだ。

サーフィンはシビアなスポーツだ。たった数日のブランクで技術が低下すると言われる。実際、4カ月のブランクはこたえた。筋力は衰え、ボードに立つのがやっとだったという。それでも浮いているだけで気持ちよかった。

震災前は、何十人ものサーファーが一つの波を取り合っていた。その海を独り占めしている。浜に上がると、消防隊員が近づいてきて「お疲れさまです」と声を掛けて、立ち去った。

「おれも被災者だから、(海に入るのは)仕方ないっていうか、(消防隊員も制止を)諦めたんだと思う。ここで亡くなった知人たちも『波乗り好きの鈴木だから』と許してくれると信じていた」

それから、定期的に海に向かうようになった。

「おとうがいて、ここの海」

鈴木正美さん(63)は浪江町で被災し、南相馬市原町区に引っ越した。鈴木康二さんとは40年来の付き合いだ。正美さんは言う。

「(康二さんは)ただのあほ。でも、あのとき、一人で海に入っていった彼はすごい。やりたいことをやること自体、気が引けるなかで、サーフィンをやっている姿に救われた。さんざん、『不謹慎だ』とか言われたけど、彼のおかげで地元のみんなが海に戻ってこられた」

鈴木康二さん自身は「サーファーや海水浴客に帰ってきてほしい」「復興と福島の未来のために」などと声をあげることはない。何も語らず、ひたすら海に入り続けてきた。

次男の和也さん(32)は「おとうがいて、ここの海っていう感じがする。風景みたいなものです。みんなそう思っている」と口にした。

海を見ると、津波を思い出す――。そう話す被災者は多い。サーファーの中にも、震災がきっかけで海から離れた人がいる。そうしたなかにあっても、鈴木さんと海との関係は切れなかった。黙々と海に向かい続けるその姿を見て、多くのサーファーも海に戻ってくるようになった。

震災の前と後でサーフィンや海に対する思いは変わったのだろうか。そう尋ねると、鈴木さんは「それは全くない。おれが入ってきたこの海と震災は結びつかない」と言い切った。

再建したサーフショップ。客足は少なくなったがサーファーを待ち続ける

仲間が集まれるようにとショップの横に建設したプレハブ。その内部には、サーフィン人生を表す写真がたくさん飾ってある

いったんは経営を諦めたサーフショップも、海沿いから3キロほど内陸に移した場所で再開した。実家の土地を譲り受け、自ら図面を引き、小さな店を構えた。

店には、新品のサーフボードもウェットスーツも置いていない。売りに出されている3本のサーフボードのうち、2本は自身のお古だ。売り上げは震災前の半分以下だという。

「店を開けて、良かったか、悪かったかじゃない。サーフショップがなかったら、これから福島の海に入ろうと思う人が来たとき、困るでしょ?」

北泉海岸では、震災前と変わらない良質な波が立つ。地元のサーファーも少しずつ戻ってきた

「海水がしょっぱいことを知らぬ子らのために」

鈴木さんらサーファーにとって、あるいは海と日常が密接に絡み合っていた多くの人にとって、「福島の海」との関係はどうなっていくのだろうか。

福島の沿岸部は、一年を通じて良質な波が立ちやすいことで知られてきた。特に北泉海水浴場はサーファーが訪れる人気のサーフポイントだった。南相馬市もサーフィンを観光の目玉に据え、官民一体で「サーフツーリズム」を推進してきた。

震災前、北泉海岸には年間8万人の海水浴客が訪れていた。震災後は遊泳禁止となり、海水浴を楽しむ人はいなくなった。

サーファーの数は現在6割程度まで戻ってきた。それでも県外からのサーファーは少ない。30キロほど離れた福島第一原発では、廃炉作業も難航している。「汚染水」が漏れたとか、海に流れ出たとか、海に放出するとか……。そういったことが何度もニュースになった。

南相馬市によると、この7月に海開きをするのは、水質調査などによって海水の安全性が確認され、万が一の地震の際に使う避難路などの安全対策も整ったからだ。海開きに合わせてサーフィン大会を開催することで、全国から人が集まることを期待する。市の担当者は「海水浴客が戻ってくれば、被災者にとっても改めて海と向き合う契機となります。サーフィンを通して国内外に南相馬の海が安全だとPRする機会になれば」と話す。

鈴木さんは毎朝1時間以上サーフィンを楽しむ。波に乗って浜辺付近まで来ると、繰り返し沖に出る

「死んだ海」から8年間かけてつくり上げてきた鈴木さんの新たな日常。

自身は、どんな思いで海開きを待っているのだろうか。

「(震災から8年が過ぎ)地元の子どもたちの中には、海水がしょっぱいということを知らない子もいる。海水浴ができるようになって、変わっていけばいい」

海開きには、ライフセーバーとして地元のサーファーが参加する。その中にはもちろん、鈴木さんもいる。


Wasteland Curation
Sngkと三嶋一路による制作プロダクション。アート、建築、音楽、ファッション、スポーツなど文化のドキュメンテーションを通じて、世界の見方を考える制作プロダクション。WEBメディアや文化誌にて企画、取材、執筆、撮影を行っている。これまでの実績に、オーストラリアのアーティスト、ヘザー・B・スワンの記録映像、ミラノデザインウィークでの展示映像制作など。

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