平成の30年間は音楽をめぐる環境が大きく変わる時代だった。CDのミリオンセラーが何作も出る時代からストリーミングの時代へ。この30年、国内外の第一線で活動してきたCorneliusこと小山田圭吾さんは時代の変化について「音楽が原初に近い形に戻ってきた」と言う。平成元年にフリッパーズ・ギターでデビューし、「渋谷系」と評されてポップアイコンに。かと思うと、ギタリストとしてYMOの面々やオノ・ヨーコさんらとバンドを組むなど、海外でも高い人気を誇ってきた。小山田さんにとって、この30年とはどういう時代だったのか。(ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース 特集編集部)
遊んでやっていた感覚
──小山田さんは、90年代半ばには音楽誌の表紙をいくつも飾るほどの人気を博していましたが、近年のインタビューでは、音楽活動を続けていけると思ったのはデビューから8年も経った1997年頃だったと明かしていました。
それまであんまり真剣に音楽やってなかった気がするんです。遊んでやってた感覚もあったし、納得できる作品もできていなかった。だから、このままやっていけるわけないでしょうと思っていました。
──1997年ごろと言えば、日本ではCDの売り上げがピークを迎えていたころですが、小山田さんの活動を見ると、そのころからヒットチャート的な国内市場から自ら離れていった印象があります。
いや、もともとそういう場を目指していないし。メジャーなレーベルでレコード出しているほうが違和感があったというか。最初、(高校卒業後に)ロリポップ・ソニックというバンドをやっていたんですが、そのバンドの曲がイギリスのインディーズレーベルのコンピレーション・アルバムに入ったんです。そういうものには憧れがあったし、うれしかった。そしたら、(そのバンドの後身である)フリッパーズ・ギターでは、いきなりメジャーデビューになってしまった。突然違うフィールドで何かやらなきゃとなって。
小山田さんは、1989(平成元)年、20歳でバンド「フリッパーズ・ギター」としてデビュー。3枚目のアルバムを出したあと、1991年に突然解散した。1993年、ソロユニット「Cornelius」として活動を開始。「渋谷系」などと称されて人気を博すも、その後は海外などに活動を広げてきた。熱心な音楽ファンから高い支持を得てきた小山田さん。その活動は平成の歩みと重なる。
1998年までの最初の10年間はCDのミリオンセラーが続出する時代で、売り上げは全盛期を迎えていた。
──デビュー当時のインタビューでは質問にはまともに答えず、遊んでいる感じがあります。
うん。まったく真面目に答えてないです。ひどいですよね。違和感を覚えつつ、テレビに出たりして、そういう状況をおもしろがってた部分もあります。
フリッパーズの時は契約とかもよく分からず、何か言われるままに曲を作っていましたね。最初は5人でしたが、曲を作っていたのは小沢(健二)と僕の2人だけで。レコード会社のお金でスタジオでレコーディングできるというのでやっていましたけど、いろいろやってみるけど、自分が思うようにできないということも感じてました。
(フリッパーズは)突然やめちゃったんで、当時、新聞にたたかれたり、みんなに迷惑かけました。なにか一つ理由があったわけじゃなく、もうお互い、そういう感じになってたんです、きっと。「やめよっか」みたいな感じだったと思います。
──解散して、Corneliusというソロユニットとなると、「渋谷系」というくくられ方をされるようになります。
渋谷系って、イメージとしては、ネオアコとかボサノバとかあるのかも分からないけど……サウンドのことじゃないですよ。渋谷で当時売れてたということだけだと思います。これもまた、フリッパーズと同じで、半分おもしろがりながら、半分違和感という感じです。
知らない土地で出会う観客
──当時、爆発的に売れていた音楽は小室哲哉さんなどが作るエイベックス系でした。ああいう音楽をどのように見ていましたか。
まぁ、はやっていたんだなという感じです。当時、たまたま小室さんのライブを海外で見たことがありました。1997年、香港でやっていたMIDEM ASIA(アジア国際音楽産業見本市)で。安室(奈美恵)ちゃんやglobe、TRFなどもいて……。とにかく当時、街で流れていましたからね。
─そのころ、アルバム『FANTASMA』を作ったわけですね。翌1998年には海外レーベルとも契約して、活動が海外に広がるようになりました。
海外で活動するようになって、自分の活動も海外のアーティストの感覚も捉え方が変わりましたね。自分がやりたいことは、こういうことなんじゃないかと気付いたんです。
初めてのライブはアメリカ・テキサス州のライブハウスで200人ぐらいの観衆。その前に日本でやったのは武道館でした。会場の大きさが全く違うので、日本からの機材は持ち込めないし、自分でセッティングもしなくちゃいけない。全然うまくいかなくて。最悪だ、と打ちのめされていたんです。でも、向こうで自分が好きだったバンドの人がたくさん見に来てくれて、ツアーに誘ってもらったり、すごく褒めてくれた。それから一緒にツアーを回ったり、実際に彼らの活動を間近で見たり、経験を積んでいくと演奏や表現も磨かれていく。それが分かったのはすごくよかった。
自分が全く知らない場所で自分の音楽を聴いている人がいるというのを知ったのも大きかった。「こんなところで?」と驚く場所でライブに来てくれる。それが、ちょうど『FANTASMA』という、当時の自分の集大成的なアルバムができた時だったので、すごく変化を感じていたと思います。
あのアルバムでは、サンプリングやコラージュみたいなことをすごくやっていて、音楽的にもいろんなジャンルが混ざる編集をしてたんです。そのせいか、よく言われていたのは、ものすごく情報があるなかで、それを取捨選択してコラージュしている感じが「すごく東京的だ」と。90年代後半って「あらゆる音楽が渋谷にある」と言われ、消費されていた時代。1998年はCDの売り上げもピークでした。「そういう感じを象徴している」と言われていましたね。
音楽業界の悪い雰囲気
平成の次の10年間(1999~2008年)、音楽業界は急速に陰りが目立っていく。1998年に6075億円とピークを記録したCDなど音楽ソフトの生産金額は翌年以降、毎年5%前後の減少を続けた。2008年は3618億円となり、10年間で40%以上の減少。音楽業界には悲観的な空気が広がり、そんな変化を小山田さんも感じていたという。同時に、自身の活動にも変化が表れる。作品は音の数が減って、一音一音の輪郭が際立つようになっていき、海外でのライブ活動やほかのアーティストとのコラボレーションに積極的に乗り出していく。
──デビュー10年を過ぎた2000年ごろから、小山田さんの活動が次第に変わっていきます。一方、音楽業界は下降していきます。
音楽業界の雰囲気は急に下がり始めて。2000年くらいから世の中の雰囲気もだいぶ変わってきました。90年代的な過剰なものに疲れて、いったん休憩というか。自分自身、2000年に子どもが生まれたりして、生活のパターンも変わった。そういうところから、自分の音の組み方ができていく感じがありましたね。もうちょっと“間”とかにフォーカスして、隙間のようなものを意識するようになった。
2001年に『POINT』というアルバムを出した後から、それまで所属していたレコード会社はリストラを始めた。世の中的にも、9.11(米同時多発テロ)があった。すごく悪い雰囲気があったように思います。友達のレコード屋がなくなったり、音楽業界全体に「これはやばい」って感じはずっとありましたね。
ただ、作る側でいうと、逆に楽になってきた部分もありました。例えば、楽曲の作り方。90年代は無意味にお金を使ってたと思うんです。フリッパーズの頃だと1日何十万円もするスタジオをブロックで押さえてとか、海外レコーディングにたくさんのスタッフを連れていったりとか普通にやっていた。それがパソコンのハードディスク・レコーディングが進化して、事務所のスタジオで十分できるようになった。自分の好きな時間に来て、好きなだけ作る。そうなると、自由にアイデアを試せて作曲や編曲での音の入れ方、組み方も変わる。自分のやりやすいやり方でできるようになりました。
──また、ユニット的な活動、ギタリストとしての参加という活動が増えていきます。
YMOの人たち(細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏)とか、オノ・ヨーコさんとか。誘ってくれたから「やってみようか」と。そういう人たちと一緒に演奏できるというのは楽しいですからね。もともと高校生の時には友だちに頼まれていろんなバンドでギターを弾いてたので、その感じです。
──その後、2003年にiTunes Music Store(現iTunes Store)で有料の音楽配信が始まり、2005年には誰でも音楽や動画をアップロードできるYouTubeが始まりました。ウェブでの音楽の広がりをどう感じていましたか。
YouTubeは出てからすぐ大好きになって、めちゃくちゃ見ていました。違法なものもあったとは思うけど、ネットにどんどん発表していく人もいるし、そういうふうに変わっていくものだと思っていました。自分ももちろんいろんな活動をしますけど、作り手である前にリスナーであって、楽しめるものが好きなんですよね。
音楽やメディアをめぐる環境はその後、さらに変化が続いた。日本では2008年にiPhoneが登場。スマートフォンの普及で、MP3などの音源ファイルを再生する形から、ストリーミングで音楽を楽しむ層が増えた。
一方、小山田さんは海外でのツアーに出たり、映画音楽やアートに関わったりと多方面の活動に乗り出していく。自分自身の作品としては、2006年に『Sensuous』というアルバムを出した後は、2017年の『Mellow Waves』まで11年間もの空白期間が続いた。
ストリーミングに「所有できない」違和感も
──長く自分の作品を作らなかったのはなぜですか。
気づいたら、10年以上経ってた感じです。正確に言えば、ずっと曲は作っていたんですが、テンポが速い曲とか圧が強めの曲は、高橋幸宏さんらとのバンド、METAFIVEの曲になったり、映画『攻殻機動隊』のサントラになったり、ヨーコさんの曲に使ったりしていた。そこで残った曲を集めて作ったのが『Mellow Waves』なんです。まとめてみたら、曲線的で、やわらかい感じの曲が多かった。
加齢によるさまざまなことってあるじゃないですか。自分の肉体的な衰えとか、脂っこいものを食べられなくなったりとか、周りや自分が憧れていた人が亡くなったり。圧が強い音楽が疲れるというのもありますよね。そういう雰囲気が作品にも出てるんじゃないかと思いますけどね。
──息子さんもモデルなどで注目されたりしましたね。
モデルっていうか、バイト的に。ただの高校生ですよ。いまロサンゼルスにいるんですが、日本にいるときにはレコード屋でバイトをしてた。音楽がすごく好きで、最近は友達みたいな感覚で音楽の話をしてますね。
──そういう若い世代の聴き方から感じられる変化などはありますか。
彼の友達は、ストリーミングのSpotifyとかで聴いてますね。アメリカのレーベルだとCDは出さないで配信とアナログという形が増えている。日本ではiTunesとかのほうが上だと聞いたけれど、アメリカやヨーロッパではもうほぼSpotify(などのストリーミング)が中心になっている印象です。
──この十数年、「モノよりコト」と言われ、音源を買うよりもライブで音楽を体験するほうの市場が伸びていると言われています。
フェスとかに人が来ているのはそうですよね。お祭り気分だし、ライトに音楽好きな人が多く行ってる感じはあります。でも、本当に音楽好きな人はやはりモノとしての音楽も買ってるんじゃないかな。ただ、若い人はCDプレイヤーを持っていなかったりするからな……。
ストリーミングはすごく便利なのだけど、所有欲を満たせない。音楽好きな人には、そういう気持ちになる人はけっこういるんじゃないかと思いますね。自分はアナログ盤で育ったので、アナログ盤に対する愛着がある。それはジャケットも含めて、アートピースとして完成されていると思うからなんです。だからストリーミングだけだと、どうなんだろうと思うところはありました。
物質じゃなくなっても、音楽に付随するビジュアルな世界観はなくならないんじゃないかな。音楽が複製芸術になってからは、ビジュアルやその他のものを含めて作品と考えていいと思うんですよ。僕自身、ジャケット眺めながら音楽聴いて想像力膨らませる、数少ない情報から妄想してどういうものなんだろうと考える。そういうことをしてきたんですよね。Spotifyでもアイコンとしてのビジュアルは残ってますよね。
ストリーミング時代に作り方も変化
──いまストリーミングサービスは広がりつつありますが、メリット・デメリット両方あるように思います。どう考えますか。
Spotifyは利用者目線でいえば、すごく便利なんですよね。「これあるんだ」と驚くようなものまで、ほんとにいろんな音楽が入っているし、インターフェイスも使いやすい。AIが優秀なのか、新しいおすすめ曲として高い精度で自分好みの音楽が届けられる。
一方で、作り手からすると、ああいうストリーミングだけでいいのかなと思うところもあります。まず、CDをパッケージで発売するのと、配信が始まるのを比べたときに、配信は「出した感」はないです。それと、再生回数による報酬は決して多くない。仮に1000回再生して100円だとして、それでミュージシャン側は普通に活動できるようになるの?って思いますよね。
でも、配信という形態だからこそ、聴かれ方も変わる。いまSpotifyでCorneliusがいちばん聴かれているのは東京で、2番はメキシコシティーなんです。それは去年メキシコシティーでライブしたからなんですが、熱狂的だったんです。そうしたら再生回数が増えていった。また、人気のプレイリストに入った曲は、その曲だけ再生回数が多くなっていたりする。自分のアルバムの中では地味な曲なんですが。
そういういまの音楽の聴かれ方で、作り方も変わってきてるんですよ。
CDでは七十数分という中で流れをつくってきた。実際、『FANTASMA』では最初の曲から最後までシームレスにつながっていく作りでした。でも、新作『Mellow Waves』では1曲ごとに分けて、どの曲でも頭から再生できるようにした。ストリーミングのプレイリストでどの曲が選択されても不自然じゃないようにしたんです。
音楽は原初の状態に戻っていく
──そうなると聴き手と作り手の関係も変わりそうですね。
僕が子どもの頃はアナログ盤とカセットしかなかったけど、今はYouTubeもSpotifyもApple MusicもCDもカセットもいろいろある。今だとSoundCloudのように、今作った音源をすぐアップして、誰もが聴けるようなサービスもある。そういう聴き方の多様化で新しい音楽に触れられる。
昔はFMラジオをエアチェックして聴くか、レコード買うかだった。そういう時代には、アーティストに対してファンタジックな夢がありましたよね。でも、今はそういうのはないんじゃないかな。だからといって、あの時代に戻れと言っても戻らない。
──そう考えると、平成の30年間で音楽は伝わり方や広がり方が相当大きな変化を遂げたように思えます。
もともと音楽って、物質じゃないんです。空気の振動なんです。エジソンのレコードができたときから複製録音芸術が始まって、レコード業界のようなマーケットができた。それより前は、誰かが演奏したり、歌ったりしていた。つまり、音楽の原初は物質じゃないので、本来的にお金に換算するのが難しい芸術なんですよね。だけど、そこが音楽の面白いところで。
1990年代までは、そういう複製芸術が物質、レコードやCDとして取引される進化の過程があってピークを迎えた。ところが、ネットが登場して、また音楽という原初に近い形=その場で感じる空気のようなものに戻ってきた。それはもちろん課金したり経済活動はあるんだけど、物質じゃないものになっていっている感じはしますね。
──そういう中でお金をしっかり払ってくれる人が増えるかどうか。
いや、音楽を熱心に好きな人は世界中にちょっとずつ相変わらずいて、そういう人はCDやレコード買ったり、ライブ行ったり、積極的に払って聴くと思います。それで音楽のマーケットは回るようにも思いますしね。
森健(もり・けん)
ジャーナリスト、専修大学非常勤講師。1968年、東京都生まれ。2012年に『「つなみ」の子どもたち』で第43回大宅壮一ノンフィクション賞、2015年に『小倉昌男 祈りと経営』で第22回小学館ノンフィクション大賞を受賞。2017年、同書で第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。公式サイト