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鈴木愛子

「脳梗塞になって、漫画家しか進む道がなくなった」――視野欠損で描き続ける決意

2018/11/23(金) 09:10 配信

オリジナル

漫画家・山下和美

山下和美さん(59歳)は『天才 柳沢教授の生活』や『数寄です!』『ランド』など、華麗な絵柄と大胆な構図で人気の漫画家である。だが21歳のとき、若年性脳梗塞を発症し、後遺症で両目の視野の右側に見えない部分ができた。「視野欠損」だ。漫画家として大きなハンディともいえるが、山下さんは「病を得たことで、前向きになれた」と語る。38年の漫画家生活をいかに送ってきたのか。(ライター・矢内裕子/Yahoo!ニュース 特集編集部)

大学生と漫画家の二足のわらじ生活

脳梗塞は、血管が詰まって酸素が運ばれなくなり、脳の機能が損なわれる病気だ。動脈硬化が主な原因で、高齢者に多い。山下さんは21歳の若さでそれになった。30代から40代の発症は「若年性脳梗塞」と呼ばれるが、20代での発症は極めて珍しい。

当時の山下さんは、新人漫画家としてデビューしたばかり。プロとしてやっていけるかどうか、必死な時期だった。

山下和美さんの自宅は、コミックエッセー『数寄です! 女漫画家東京都内に数寄屋を建てる』に登場する風雅な数寄屋建築の家。4匹の猫と一緒に暮らしている(撮影:鈴木愛子)

「『週刊マーガレット』でデビューして、大学生と漫画家の二足のわらじの生活で、いつ眠っていたのか覚えていないくらい忙しい毎日でした。若かったし、充実していたので、辛いとは思いませんでした。体調が悪いこともなかった。自分が病気になるとは考えもしなかったんです」

脳梗塞になったのは1980年、21歳のときだった。大御所漫画家のピンチヒッターになったことが、きっかけだったという。

「弓月光先生が急病で入院されて、新連載の話が回ってきました。巻頭カラーも描かせてもらえるということで、そのころの私にとっては願ってもないチャンス。喜んで受けました。まだ安泰という立場ではなかったので、とにかく仕事をしたかったんですよね」

「といってもアイデアのストックはありません。昼間は大学へ行き、週に何回か、午後から出版社に行って打ち合わせをして、会議室で缶詰めになってネーム(下書き)を書きました。当時は夜中の12時を過ぎるとタクシーを出してもらえたので、それに乗って家へ帰る生活を続けていました」

突然、頭の中で何かが切れる

忙しいながらも充実していたある日のこと。いつものように出版社でネームを考えていたとき、山下さんに異変が起こった。

「頭の中でブチッと何かが切れて、頭の右側から右足の先まで、電流が走ったように感じました。同時に猛烈な吐き気が起こって、とにかく気持ちが悪くなった。これはただごとではない、と自分でも分かりました」

「帰らなくちゃと思って、シャープペンシルをしまおうとしたんですが、どうしても見つからない。後から考えると、そのときにはもう両目の右側半分が視野欠損になっていて、右半身は感覚麻痺を起こしていた。あるはずのシャープペンが見えなかったんです」

山下さんの異常に担当編集者が気付き、すぐに救急車で病院に搬送された。だがCTスキャンでも異常が発見されず、家に帰された。

「翌日になっても、やっぱり気持ちが悪いし、両目とも右側が見えない。母親と最初とは違う病院を受診したら、内科の女医さんがすぐ『脳神経外科に回して!』と言ってくれて。X線撮影のために造影剤を入れたら、左半身だけが熱くなった。右側が麻痺して感覚がなくなっていたんです。脳の視覚中枢を支配する血管が詰まっていると分かって、そのまま脳梗塞と診断され、血栓を溶かす薬を入れるために点滴入院となりました」

その瞬間、頭の中で何かがブチッと切れた感覚が山下さんを襲った(撮影:鈴木愛子)

若い世代に増えている脳梗塞

「頭の中で何かが切れて、突然、体の片側に異常を感じるのは、脳梗塞でよく起きる症状です」

そう説明するのは、山王病院・山王メディカルセンター(東京都港区)、脳血管センター長の内山真一郎医師だ。かつて長嶋茂雄氏も担当した内山医師は、脳卒中や血栓症の分野で国内及び国際共同研究に携わるほか、脳卒中の予防や治療について書籍を執筆するなど、積極的に啓発活動をおこなっている。

よく起きる症状なのに、なぜ救急搬送された病院では分からなかったのか。

「山下さんが発症した約40年前は、まだMRIもありませんでした。発症した直後だと、CTスキャンでは見えにくいので、最初の病院では発見しづらかった可能性はあります。こうした初期症状は、見逃されるケースもあるので、脳梗塞の疑いがあるときは、専門医がいる病院に行っていただきたいのです」

若年性脳梗塞はかつては珍しかったが、内山医師によると「近年は世界的に患者が増えている傾向」という。

発症当時の記憶を語る山下さん(撮影:鈴木愛子)

脳梗塞のリスクは、高血圧、糖尿病などの生活習慣病がある場合に高まる。また、偏ったダイエット法も注意が必要だと内山医師は言う。

山下さんはどうだったのだろうか。

「私の場合、父方、母方、両方の祖父が脳梗塞で亡くなっているので、脳梗塞になりやすい家系なのかもしれません。あと、思いがけないチャンスをもらって、ストレスも大きかったのでしょうね。それから直接関係があるかは分かりませんが、ひどいスギ花粉のアレルギーもあるんですよ」

アレルギーとの関係について、内山医師はこう説明する。

「アレルギーによって血管に炎症が起こることで、血管が細くなり、詰まってしまうことは考えられます。また血縁者に脳卒中になった人がいる場合は、血管や血液に問題のあることが少なくないので、精密検査をしておいたほうがいいでしょう」

ストレスについては、脳梗塞の危険因子になることはまだ証明されていない。だが現実にはストレスが引き金になって発症する人は多いとみられているそうだ。ストレスを受けると、交感神経が緊張して血管が収縮しやすくなり、血圧が上昇して血管が詰まりやすくなるからだ。

山下さん宅の床の間に飾られていた小物たち。「病気のおかげで、漫画に専念できたと思います」(撮影:鈴木愛子)

脳梗塞になると、退院時に介助を必要とする人が3割、全く後遺症が残らない人は約2割とされる。若い年齢で発症すると、その後の生活に大きな影響を及ぼす場合もある。脳へのダメージは、発症してからどれだけ早く治療を受けるかで大きく変わる。

漫画家として生きる決意

入院中、山下さんの視野欠損は少しずつ小さくなっていった。「このまま、治るかもしれない」と期待が膨らんだ。

「でも結局、あるところからは回復しなくて、今でも両目の右側に見えない部分が残っています」

両目の視野欠損について、山下さん自身が描いたイラスト。右上の部分が見えないが、見る場所を変えることで絵を描く(撮影:鈴木愛子)

漫画家は目を使う職業だ。ましてや山下さんの絵柄は繊細で美しい。目に見えない部分が生じて、漫画家生活の断念を考えたことはないのだろうか。

「入院している間は、さすがにモヤモヤしていましたね。それで退院してすぐ漫画を描いてみたら、描けたんですよ。『ああ描ける』と安心しました。視野の右側に見えない部分があるけれど、右利きなのでペン先は見える。でも他の仕事に就くことは難しいと思いました」

脳梗塞になる前の山下さんは、漫画を描き続けるか迷っていたという。

「父親は大学教授で私も教育系の学部でしたから、教師になろうかな、という気持ちもあったんです。当時の編集部から『本当に漫画家になるつもりなのか』みたいな目で見られていましたし。ただ視野欠損があると、体を動かす仕事は無理だから、それならば漫画家としてとにかく頑張ろうと逆に前向きになれたと思います」

「もしも血管が詰まった場所がずれていて、視野欠損が中央やペン先の辺りだったら、漫画は描けなかった。その点は幸運でした。漫画を描く才能だけは残った、ということですね」と山下さんは笑った。

〈見えない障がい〉を抱えて

漫画家以外に教師の道を考えたこともあった(撮影:鈴木愛子)

若年性脳梗塞で倒れた後、山下さんは少女漫画誌で奮闘。その後、1988年からは発表の場を青年誌に移した。

青年誌「モーニング」では、自身の父親をモデルにした『天才 柳沢教授の生活』を描き、大ヒットに。同作は2003年に第27回講談社漫画賞を受賞した。コミックは34巻まで出版され、スピンオフや傑作集も刊行されている。他にも『不思議な少年』、そして現在も同誌に連載中の『ランド』と、人気作品を描き続けている。

山下さんの作品の数々(撮影:神田憲行)

「退院後は視野欠損以外には、体に影響がなく、リハビリをする必要もありませんでした。その後はスキーを楽しんだり、運転はしないものの、自動車免許も取得しました」

とはいえ、今も街を歩いていて人とぶつかることがあるという。

「例えば、エレベーターから降りたときに、右側から早足の人が近付いてくると、突然、見えない場所から人が現れるので分からないんですよ。私からすると、急に視野に人が入ってくるのでよけられません。ぶつかった相手の人が怒ってくると、ひたすら謝ります。〈見えない障がい〉という言葉がありますが、外側から見ただけでは分からないという意味で、まさにそういう感じなんです」

30歳ごろには不整脈が見つかり、逆流性食道炎や膀胱炎になったこともある。50代で動脈硬化と診断され、今でも服薬を続けている。

「なってしまった病気は仕方ないから、悪化しないように生活をコントロールするしかない」と山下さん。

「例えば、水分をきちんと取る。寝る4時間前はものを食べない。睡眠時間を確保するといったことを心掛けています。仕事が遅れても徹夜はできないので、早めに進めるようになりました。お正月などの数日を除いて、ほぼ毎日、少しでも描くようにしているんですよ」

節目節目で漫画を描く選択

予想外の出来事が起こっても、くよくよせず、できることを探して前を向いて進んでいく。困難と向き合う山下さんの姿勢は、柳沢教授をはじめとする、山下作品の主人公たちを彷彿(ほうふつ)とさせる。

緻密で美しい絵柄の山下さんの作品が、視野欠損を抱えながら描かれてきたとは驚きだ。「糖尿病の猫がいるので、朝と晩、血糖値を測って、インスリン注射をします。家で規則正しい生活ができるのも、漫画家の仕事のよいところです」(山下さん)。両方とも『続 数寄です! 弐』から(C)山下和美/集英社

2011年、山下さんは自ら探した東京都内の土地に数寄屋建築の家を建て、引っ越しをした。移ってからも工事は続き、庭木なども含め、2012年春に完成。土地探しから完成までの出来事は『数寄です!』(全3巻)『続 数寄です!』(全2巻)に詳しい。

「ひょんなことから、借金をして数寄屋建築の家を建てることになったので、返済のためにこれからも漫画を描かざるをえなくなった(笑)。将来について迷っていた新人時代に脳梗塞になったおかげで、漫画家しか進む道がなくなったときも、とにかく描いて生きていくしかないんだと思って、頑張ることができました。そう思うと、私の人生は節目節目で、漫画の神様から『お前は漫画を描け』と言われているみたいです」

自宅で(撮影:鈴木愛子)

山下和美(やました・かずみ)
1980年、「週刊マーガレット」からデビュー。主に少女漫画誌を中心に活躍していたが、『天才 柳沢教授の生活』を「モーニング」で不定期連載してから、『不思議な少年』などの話題作を発表。女性、男性を問わず幅広い人気を得ている。他に、自身の経験を描いた『数寄です! 女漫画家東京都内の数寄屋で暮らす』などがある。


矢内裕子(やない・ゆうこ)
出版社で書籍編集者として働いたのち独立し、ライター/エディターに。著書に『落語家と楽しむ男着物』、『私の本棚 #1雲田はるこ』(KindleSingle)。企画・構成した本に萩尾望都『私の少女マンガ講義』、柳家喬太郎『落語こてんパン』など。


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