八尋伸

4歳でアウシュヴィッツを生き延びて──フェイクニュースを駆逐するため語った体験

11/12(月) 8:23 配信

偶然見たサイトには「ホロコーストはなかった」と記されていた。アウシュヴィッツ強制収容所を4歳のときに生き延びたマイケル・ボーンスタインさん(78)は、ネットに蔓延するフェイクニュースに対抗するため、ジャーナリストでもある娘のデビー・ボーンスタイン・ホリンスタートさんと協力し、当時の体験を書籍に記した。この10月に来日した2人は「自分たちがすべきことは、真実を語ることだ」と言う。(ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース 特集編集部)

人間を焼く、胸が悪くなる臭い

第2次世界大戦時、欧州で史上最大級の虐殺が行われた。ナチス・ドイツによるユダヤ人などの迫害──ホロコーストである。1933年、政権の座に就いたアドルフ・ヒトラーは、ユダヤ人を迫害する施策を次々と打ち出した。1939年、ドイツがポーランドに侵攻。イギリスとフランスが応戦する形で大戦が勃発すると、ユダヤ人はゲットー(ユダヤ人居住区)に送られた。

その後、ユダヤ人はナチス統治下のポーランドにあるアウシュヴィッツなどに設置された強制収容所に移送され、毒ガスなどで命を奪われた。その数は100万人以上とされる。毎日、死体の山が積み上がり、大量の死体が焼却炉で焼かれていった。

当時そんな狂気の世界を生き延びた少年が、70年余りの時を経て自らの体験を語りだした。

戦時中のポーランドで生まれたマイケル・ボーンスタインさん。アウシュヴィッツ強制収容所に入ったものの、4歳で生き延びた。現在は米ニューヨーク市およびニュージャージー州に暮らす(撮影:八尋伸)

「ポーランドのジャルキという街から、窓のない貨物列車に立錐の余地もない状態で詰め込まれ、2日ほど揺られてアウシュヴィッツに着きました。そのときのことは……忘れることはできません。列車から降りると、まずナチスの人たちのブーツが目に入りました。周囲には強烈な肉を燃やす臭いがしていました。胸が悪くなる臭いでした」

都内の会議室で娘とともにインタビューに応じたマイケル・ボーンスタインさんはそう振り返る。異臭は人間を焼く臭いだった。直後に目に飛び込んできたものも異様だった。

骨と皮ばかりに醜くやせこけた何百人もの人々が、フェンスの向こうにずらりと一列に並んでいた

人々は、頭を動かさないようプログラムされているかのように、微動だにせず前を向いていた。あるいは、体を動かすエネルギーが彼らには残っていなかったのかもしれない

やせ衰えたユダヤ人は自らの足で歩いてシャワー室に行くことを強制され、そこで「チクロンB」というガスを浴びて命を落とした。

アウシュヴィッツ強制収容所の女性たち=1944年ごろ(写真:Ullstein Bild/アフロ)

マイケルさんが父、母、兄、祖母の家族5人でアウシュヴィッツに着いたのは、1944年7月。ユダヤ人の間では以前から「あそこに行ったら生きて帰ってくることはない」と恐れられていた場所だった。

だが、マイケルさんと母、祖母はそのアウシュヴィッツから奇跡的に生き延びた。アウシュヴィッツ強制収容所が解放されたのは1945年1月27日。その時、生き残っていたのは2819人、8歳以下の子どもはわずか52人だったという。

「B-1148」という左腕の刻印

それから70年。2015年初頭のある日、マイケルさんはネットで思いがけない情報に遭遇した。アウシュヴィッツ強制収容所を解放されたとき、マイケルさんはソ連軍によって撮影され、その写真はいつしかネット上でも見られるようになっていた。ところが、自分の写真を掲載していたサイトが「ホロコーストは嘘だった」と主張していたのである。衝撃だったとマイケルさんは言う。

解放後にソ連軍が撮影した写真。前列右がマイケルさん(提供:AUSCHWITZ MUSEUM/ロイター/アフロ)

「そのサイトには『この写真を見る限り、アウシュヴィッツの子どもたちは健康的で、悪くない場所だった』とも書いてありました。そこは歴史修正主義者のフォーラムで、明らかなフェイクニュースを記していたのです。私は怒りのあまり、コンピューターを叩きつけました。そして考えました。実際に起きた事実について語るときが来たのだと」

戦後、マイケルさんはアメリカに移住、大手製薬会社の研究者となり、結婚して4人の子どもにも恵まれた。自らの戦時中の体験については家族にも多くを語ってこなかった。それはアウシュヴィッツにいたことを「恥ずかしい」と考えていたことも理由の一つ。ただ、なにより重要だったのは、自身の記憶は「あるものは鮮明だけれど、あるものはぼんやり」しており、曖昧なまま「事実」として発言をするのは避けなければいけないと考えていたためだった。

「アウシュヴィッツ解放後に連れていかれたドイツ・ミュンヘンで、私は髪の毛もなく、ドイツ語も話せず、周囲の子にいじめられました。その記憶は明瞭です。でも、アウシュヴィッツで私が経験したことは、どこか曖昧で、少し自信がなかったのです」

アウシュヴィッツにいた明確な証しはあった。入所時に左腕に刻印された「B-1148」という入れ墨だ。それは70年余り経ったいまも、マイケルさんの左腕に残っている。

マイケルさんの左腕に「B-1148」とアウシュヴィッツ強制収容所で刻まれた入れ墨がある(撮影:八尋伸)

約70年前の体験を事実として世に出す。そんなマイケルさんの思いを引き取ったのが、娘のデビー・ボーンスタイン・ホリンスタートさんだった。デビーさんは若いころから父の古い話を広く伝えるべきだと考えていた。自身はNBCテレビとMSNBCテレビで番組プロデューサーを長く務めてきたジャーナリストでもあった。

父の意向を聞くと、デビーさんはすぐに動きだした。父をはじめ、生き残った親族への聴き取りを開始し、さらに当時の生還者や関係者にも取材した。

娘のデビー・ボーンスタイン・ホリンスタートさんと父マイケルさん(撮影:八尋伸)

多くの同胞を救ったマイケルさんの父

取材を通して分かってきたことがある。マイケルさんの父であるイズラエル・ボーンスタインが当時ジャルキの街で多くのユダヤ人同胞を助けようとしていた事実だった。イズラエルは街のユダヤ人評議会で議長を務めており、あらゆる手段を使って家族や同胞のユダヤ人を守ろうとしていた。

(左)マイケルさんの父イズラエル(右)母ソフィーとマイケルさん(提供:マイケル・ボーンスタインさん)

孫娘にあたるデビーさんは言う。

「例えば生存者の一人、マーヴィン・ズブロフスキーは、とても多くの情報を提供してくれました。当時10代だったマーヴィンはあるとき、高熱を出し、強制労働に行けなかった。そのことでナチスから死刑を宣告されました。ですが、イズラエルはナチスの将校を買収して、マーヴィンの命を救ったのです。マーヴィンにとって、イズラエルは命の恩人でした。取材で会ったときマーヴィンは90歳でしたが、そんなゆかりのある人たちが当時のことをたくさん話してくれたのです」

文献調査でも成果はあった。戦後、イスラエルで暮らしたジャコブ・フィッシャーという生存者は、ヘブライ語で当時のエッセーを書いていた。その中に、ジャルキの街でイズラエル・ボーンスタインが、ナチスの将校を手なずけることで、ユダヤ人の生活環境や生き延びるための条件を少しでも良くしようと努力していたことが記されていた。

米国のテレビの報道番組でレポーターやプロデューサーをしてきたデビーさんが取材の多くを務めた(撮影:八尋伸)

「二度と戻ってこない」という「暗い噂」

ドイツがポーランドに攻めこんだ1939年10月以降、ユダヤ人はゲットーで暮らすようになっており、まもなく街では非人道的な行為が日常的に行われるようになった。ドイツ兵やポーランドの警察団の意に染まないユダヤ人は、いとも簡単に暴行され、ひどいときには射殺された。

ジャルキの街にゲットーができてすぐのころ、マイケルさんの母ソフィーはこんな風景を目撃したという。

父、母、3歳の娘サーシャという3人のあるユダヤ人家族。彼らはドイツ兵に指示されて路上で全裸にさせられ、父はそこで穴を掘るように命令された。穴を掘り終わると、ドイツ兵は家族に泣きやむよう「静かに」と言い、穴の横に立つよう指示した。

泣き叫んでいたサーシャですら、父親と母親に倣って、声を上げるのをやめた。
パン、パン、パンと銃声が鳴った。どれも命中だった。裸の三人は抱き合ったまま、父親が掘ったばかりの穴の中に一緒に落ちた

ワルシャワのゲットー(写真:Picture Alliance/アフロ)

1942年9月には「暗い噂」が流れるようになった。

ポーランドじゅうから何千人ものユダヤ人が集められ、ドイツ人が「東方への再定住」と呼ぶ何かのために東へ移送されているということだった。男も女も子どもも貨車に押し込まれ、強制収容所に運ばれ、収容所の入り口で旅行鞄はもちろん身につけていたすべてを奪われる。そして「再定住」した人々は二度と戻ってこない

そうしたなか、イズラエルの行動は、命を賭した勇気あるものだった。マイケルさんは言う。

「父イズラエルは、多くの同胞にポーランド国外に逃亡するためのビザを発行する手配をしました。また、アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会を頼って、食料や医薬品を送付してもらい、多くの人に栄養を与えるスープキッチンを開設しました」

(撮影:八尋伸)

そうした行動のために、評議会で集めた基金を使って、将校たちを買収していた。だからイズラエルは同胞からは「裏切り者」とも見られる可能性もあった。

「でも、そうした取り組みはドイツ人将校と仲良くしなければできなかったのです」とマイケルさん。娘のデビーさんが後を引き継いで言う。

「私が祖父イズラエルの活動について知ったのは、ヘブライ語の記録を翻訳してくれた女性と話しているときでした。彼女は『彼がしてくれたことで、本来死ぬはずだった多くの人が助かり、いまも生きているのよ!』と伝えてくれた。私は涙が出ました。そして、そのメモを持って父の家まで走っていき、父と共有しました」

杉原千畝に救われたいとこ

それまで把握できていなかった親族の物語もデビーさんらの調査で明らかになった。

イギリス北部に暮らす研究者の女性は、マイケルさんの兄でアウシュヴィッツで命を落としたサミュエルの写真を保有していた。戦後、ジャルキの写真スタジオ経営者から入手していた。

「父の兄、サミュエルの写真は私が最も見つけたかったものの一つです。父は、兄の顔をほとんど覚えていませんでした。調査の成果というより、家族として大事なものを父に見せることができた。本当によかった」

「自分の話になるとすぐ話題をそらすのが、父のくせなんです」とデビーさん(撮影:八尋伸)

マイケルさんのいとこは、リトアニアでユダヤ人に多くのビザを発給した日本の外交官、杉原千畝に救われた一人でもあった。デビーさんが続ける。

「父の母の姉は、夫と娘シルビアと一緒にリトアニアに逃れ、そこから杉原千畝の発給したビザで日本に亡命しました。そう、日本人の杉原さんによって救われていたんです。ですから、シルビアはアメリカに移住したあとも、日本にたびたび来ています。また、父とシルビアは生き残った者同士、誰にも理解できない特別な絆を持っていますし、彼女からも戦時中の家族の様子を知ることができました」

大手製薬会社で長く研究者として働いてきたというマイケルさん(撮影:八尋伸)

増えるフェイクニュースとヘイトクライム

マイケルさんとデビーさんの父娘はアウシュヴィッツなど各地に足を運び、取材や調査に2年間を費やした。そして書籍『Survivors Club』(邦題『4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した』NHK出版)を2017年3月、アメリカで出版した。

デビーさんは、この著作を出すことは次代に事実を伝え続けるための責任でもあったと語る。取材や執筆をしているさなかの2年の間にも、フェイクニュースやヘイトクライム(憎悪犯罪)はあふれていたからだ。

「シャーロッツビルで起きた衝突を知っていますか」というマイケルさんの言葉に、デビーさんが「父さん、あれはネオナチよ」と補った。

昨年8月、米バージニア州シャーロッツビルで白人至上主義者の集団とその反対派の大規模な衝突が起き、1人が死亡、十数人が負傷した事件だ。白人至上主義者に対して世界から非難の声が上がったが、ドナルド・トランプ大統領は「双方に責任」などと発言し、白人至上主義者の肩を持つのかといった批判を浴びた。

米バージニア州で起きた白人至上主義者と反対派の衝突(2017年8月、写真:AP/アフロ)

デビーさんはこうした動きを深く憂いている。

「『オルト・ライト(新極右)』と名乗るグループはナチスの旗を掲げ、ナチスのスローガンを口にしていました。にもかかわらず、トランプ大統領はそんなグループを全面的に非難しなかった。対立する双方に問題があるという言い方をしていたのです。誰しも思想をもつのは自由です。しかし、ヘイトクライムに対して抗議できない人に良心があると言えるでしょうか」

大統領がそんな対応だから、いまアメリカではフェイクニュースがはびこっているのだとデビーさんは言う。

(撮影:八尋伸)

「これまでアメリカでは8年生(中学2年程度)になるころには、ホロコーストについて学んできたものでした。でも、昨今はホロコーストがなかったというようなフェイクニュースがネットで書かれ、そうした嘘の情報がヘイトクライムにもつながっています。今回、父が自分のことを話そうと思ったのは本当に偶然でしたが、私にとっては必然でした。正直に言えば、父たちが経験してきたことは、あまりに過酷で困難なことでした。私は執筆中、何度も自分が1942年のポーランドにいるような悪夢を見ました。それでも『私たちは自分たちがすべきことをするのだ』と思っていました。つまり、真実を語るということです」

家族の歴史をつなぐカップ

この取材中、マイケルさんが小さな銀のカップを取り出した。ユダヤの人たちが安息日やお祝いの際に用いる「キドゥーシュ・カップ」だ。この小さな杯は戦時中、マイケルさんの父イズラエルが強奪に備えて裏庭に埋めておいたものだった。戦後に掘り出され、折に触れて使われてきたのだという。

ユダヤ人たちが安息日などに使うキドゥーシュ・カップをもつマイケルさん(撮影:八尋伸)

「私の結婚式、デビーの結婚式をはじめ、家族の祝福のたびに使ってきたものです。これは過去と未来を結びつける大事なカップです」

そう父が言うと、娘もうなずく。

「このキドゥーシュ・カップはこれからも家族で受け継いでいくものなんだと思っています」

(撮影:八尋伸)


森健(もり・けん)
ジャーナリスト。1968年、東京都生まれ。2012年に『「つなみ」の子どもたち』で第43回大宅壮一ノンフィクション賞、2015年『小倉昌男 祈りと経営』で第22回小学館ノンフィクション大賞を受賞。2017年、同書で第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。公式サイト

[写真]
撮影:八尋伸
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝


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最終更新:2018年11/14(水) 14:50

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