防災担当者が見た阪神淡路大震災から30年(4)外れて欲しいと思って発表した多分最初で最後の天気予報
兵庫県南部地震と天気予報
平成7年(1995年)1月17日(火)5時46分、兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)が発生したとき、私は神戸海洋気象台予報課長で、予め決められている通り、自動的に神戸海洋気象台災害対策本部の副本部長になりました。
神戸海洋気象台のみならず、大阪管区気象台、気象庁総力をあげ、神戸市における気象観測、兵庫県の天気予報や注意報と警報の発表、各種情報提供など、神戸海洋気象台の業務を通常通り行うことができましたが、そのとき、「外れて欲しいと思って予報を発表する」という、ありえない経験をしました。
兵庫県南部地震発生当時、兵庫県の週間天気予報は1日に1回、18時に発表していますが、17日、18日(水)の週間天気予報では、次に天気が崩れるのは23日(月)頃で、それほど大きな崩れではないというものでした。
しかし、19日(木)の観測・予報資料からは22日(日)に気圧が瀬戸内海から東海地方にかけて通過し、兵庫県南部ではかなりまとまった雨が降る可能性を示していました。
そこで、20日(金)からは頻繁に、雨に関する情報を発表して警戒を呼びかけました(図1)。
普段の情報は、「大雨に関する情報」を1日位前に発表しますが、今回は「雨に関する情報」で、しかも2日前です(表)。
私が予報課長として当番の予報官等に注意した点は、利用者は混乱した状態で聞いているので、分かりやすく、屋上屋を架する情報でもかまわないから、具体的に、かつ間違って伝わらないように配慮して欲しいということです。
これを受けて、当番の予報官等は、山・崖崩れや洪水、低地の浸水に注意を呼びかけることに加えて「雨による漏電等の災害が起こる恐れが…」、「風も強く吹くため看板等の落下物にも十分な注意が…」、「今後順次、雨についての状況を通報しますので各防災関係機関等は対応方よろしくお願いします」というように、できるだけ具体的な情報を作成し、それを発表しています。
みるみる青くなる神戸の町
1月22日の雨に対する警戒の呼び掛けは、20日午後からテレビ、ラジオ、新聞等で盛んに流されました。また、雨に関する情報は日本気象協会神戸支部を経由してNTTに送られ、177電話サービスの中にも付加されました。
このため、兵庫県などは、神戸市や西宮市、宝塚市の土砂崩れなど二次災害が起きる危険性の高い地区に新たに避難勧告、二次災害の可能性がある場所について立ち入り禁止措置、職員が警戒にあたる、危険地区を示した図を作成して市役所などに掲示、自衛隊などと協力してテントを設置しています。
被災地では20日から、ビニールシート等の雨対策用資材の調達が各所で始まり、夜を徹して被災地に運ばれた大量のビニールシートを用いて、21日の晴天のもと雨対策が本格的に行われました。
自治体は多量のビニールシートを配布し、家の屋根や道路等にはビニールシートが次々に掛けられました。
21日夕方には、被害が少ないと思われた気象台西側の住宅も、殆どの屋根にブルーの防水用ビニールシートが掛けられました(写真)。
神戸の街がどんどん青く変わってゆき、1日にしてブルーの海となったのを見ると、改めてこの地震の被害の大きさを実感しました。
同時に、防災や復興にかける関係者の熱意を感じるとともに、我々の責務の重大性を改めて認識しました。
被害の大きかった地区へ地震の調査のためいった職員から、「廊下に掲示してある気象台の発表した情報を、住民が見てパニックを起こしているので、そこの防災担当者から情報文の山・崖崩れに注意という部分を削除して欲しいと懇願されている」と普段は起こりえない状況の連絡も入り、気象台内でも、緊張感がどんどん高まってゆきました。
外れて欲しいと思って発表した初めての予報
筆者は、長いこと天気予報に携わり、外れて欲しいと思って発表することはありえないと思っていましたが、阪神淡路大震災後初の雨予報だけは、普段では考えられない大きな二次災害の可能性があり、外れて欲しいと思いました。
1月21日の夕方に発表した明日(22日)の予報は、「南東の風後北よりの風 一時やや強く 雨所により雷を伴う 夜は曇り」です。
その時の当番者が「外れて欲しいと思って発表した初めての予報だ」とポツリと言った時、何とも言えませんでした。私も同感であったからです。
しかし、地震により山や崖に亀裂が入り、堤防や防潮堤も損傷を受けています。
排水溝も瓦礫で詰まり、排水ポンプも正常に作動するかどうか分かりません。
分かっているのは災害に対する防災能力が低下していることだけで、山・崖崩れや洪水、低地の浸水などで大規模な二次災害が発生することが懸念されました。
加えて、人命救助の作業がまっさきに行われていたため、多数の救援物資が屋外にそのまま積まれていました。
屋根が崩れている家に住んでいる人や焚き火をしながら野宿をしている人が多数いました。
大雨でなくても、ちょっとした雨という普段ではなにげない現象でも、救援物資が濡れてダメになり、野宿の被災民等が冬の雨に濡れて着替えも無いといった普段では考えられないことが次々に起きる可能性がありました。
とにかく、「しばらくは雨が降って欲しくなかった。」「天気予報が外れて欲しかった。」というのが本音でした。
週末になるにつれ急速に増えてきた問い合わせに対しては、「地震の影響で災害が起きやすくなっているので安全な場所に避難するなど、落ち着いて行動すること」を強調しました。
また、「雨は23日には上がり、週間天気予報ではその後は、晴ときどき曇の天気が続く見込みなので、それまでは我慢して落ち着いて行動して下さい」など、雨が長く続かないことに主眼を置いて説明することにしました。
とにかく冷静に雨に対応して欲しかったからです。
地震後最初の雨
1月21日土曜日の夕方、予想どおり、東シナ海西部で低気圧が発生し、西日本には南から暖かくて湿った空気が流入して冬場としてはまとまった雨の可能性がでてきました。
そして、低気圧は予想通り東進を続け、これに伴う雨域も順調に東へと広がり、夜半過ぎには淡路島北部や京阪神地区が雨となりそうでした。
私は22時10分すぎの兵庫県のテレビ局であるサンテレビの電話インタビュー(そのままテレビ放送)で、次のように答えました。
「兵庫県南東部では、夜半すぎに弱い雨が降り出し、本格的な雨となるのは明け方頃と見ています。雷を伴った強い雨は午前中ですが、日中はだいたい雨と思っています。夜は曇りになると思います。」
神戸市での22日の日曜日の雨は、1時頃からパラパラ降り始めたものの、雨という感じにはなりませんでした。
「本当に雨が降るのだろうか。降って欲しくない。」と思いながら、仮眠をとりました。
4時すぎに起きた頃から本格的な雨が降り始めました(図2)。
テレビで「自衛隊が徹夜で作業を続けてテントを張り終わったのが3時で、その後雨が降ってきた。」と報じていましたが、この時、「防災関係者の努力が間に合うように、雨の降り始めが遅れてくれた。」と感じました。
6時30分のサンテレビの電話インタビューでは、雨の予想に、最高気温の予想は1月としては平年より高いが外で生活するには寒い13度である、風が強い予想であるが、風が強いと体感温度が下がる、気象台や防災機関はその機能を維持しており、テレビ等で正しい情報を入手し落ち着いて行動して欲しいことをつけ加えました。
関係者の努力で二次災害を発生させなかった
日曜日の雨は、予想通りのタイミングでの降りかたでした。
被災地では、予想した雨量範囲の下限位であり、幸いなことに大きな災害や不測の事態が発生しませんでした(タイトル画像)。
というより、いろいろな方面での防災関係者の努力の結果、大きな災害や不測の事態を発生させなかったと言った方が、正しいと思います。
例えば、神戸市や西宮市などでは、雨脚が強まり始めた午後からは、土砂崩れや道路の亀裂が相次いでいますが、事前に避難するなどしていたため人的被害はありませんでした。
過ぎ去ってみると、22日の日曜日の雨は、復興のターニングポイントとなったと思っています。この時に、大きな二次災害が発生していたら、復興へ向かって団結していた皆の意識がバラバラとなり、復興のスケジュールが大幅に狂ったと思います。
また、22日の雨は、いくつかの利点をもたらしたと思います。
前年から続いていた水不足が一息ついたことと、地震後埃っぽかった町の塵が洗われ、空気が一時的に澄んだことです。
加えて、一番大きかったことですが、二次災害が発生しなかったことにより、無我夢中で行動してきた私たちを含めた神戸の人々の頭を冷やさせ、少し冷静にさせてくれた効果があったと思います。
神戸の町にかけられたブルーシートは、復興するにつれ必要がなくなって取り除かれます。このため、ブルーの海を、復興を示すリトマス紙と感じていたが、このブルーの海は1月22日の雨が止んでから1週間たっても、2週間たってもなかなか減りませんでした。
それだけ被害が著しかったのです。
大災害が発生したとき、二次災害がおきると大災害がより深刻になります。
被災地で二次災害防止のための活動は困難を伴いますが、二次災害に不意打ちはありません。予想することができます。
被災地域だけでなく全国で取り組み、二次災害を防止することが、大災害から復興する第一歩であるという実例が、30年前の阪神淡路大震災であったと考えています。
写真、図1、図2、表の出典:饒村曜(平成8年(1996年))、防災担当者の見た阪神淡路大震災、日本気象協会。
参考:
防災担当者が見た阪神淡路大震災から30年(1)通常通り業務を継続した神戸海洋気象台の取材対応とその後