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防災担当者が見た阪神淡路大震災から30年(3)大火の火元は2ヶ所 静けさの中で火事が広がる不気味さ

饒村曜気象予報士
地震発生直後の神戸市長田区付近の火災(平成7年1月17日6時頃、筆者撮影)

神戸市長田区の火災

 平成7年(1995年)1月17日5時46分、阪神淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震が発生した時、筆者は神戸海洋気象台(現在の神戸地方気象台)の予報課長で、大災害が発生した時には、気象台の対策本部副本部長として、気象台内の業務全般とマスコミ対応をするということが予め決まっていました。

 気象台の南側、一段下がったところにある5階建ての国家公務員の職員宿舎で寝ていましたが、布団の中で直下型の地震だと判断してすぐ起きました。

 地震発生から10分はかかっていなかったと思いますが、気象台に駆け付けると、当直の職員たちが、予め決められている作業を坦々と行っていましたので、筆者はフィルムカメラで、庁内や外の様子を記録し始めました。

 6時頃、気象台から南西の方向、神戸市長田区付近で、暗闇に小さな火の手がぽつ、ぽつと2ヶ所で上がっているのが見えました(タイトル写真)。

 今は使っていない百葉箱(屋外に設けてある白塗りの箱で、観測のための温度計や湿度計が収納される箱)が地震によって傾いていましたが、その南東方向2キロから3キロ先にです。

 気象観測機器が置かれている露場は芝生となっており、観測機器に至る動線は、東西方向と南北方向を基準とした石畳になっています(タイトル写真で百葉箱近くの石畳は東西方向)ので、暗闇でも、すぐに火災が神戸市長田区付近とわかりました。

 1月17日は満月で、月の入りが6時52分、日の出が7時6分でした。

 まだ夜があけておらず、月や星の見えない曇りの日であるといっても、普段なら町の明かりがある長田区付近は真っ暗闇で、その中で火事が広がっていました。

 消防車のサイレン等の音が全く聞こえず、静けさの中で火事が大きくなってゆくのが不気味でした。

 夜が明けても、長田区付近の火事の勢いは衰えず、火元も増えているように見えました。

 煙は北から東の風によって左から右へ流れていました(写真1)。

写真1 神戸海洋気象台の屋上から見た長田区付近の火災(1月17日午前中)
写真1 神戸海洋気象台の屋上から見た長田区付近の火災(1月17日午前中)

 また、気象台の東側の灘区付近にもいくつかの火事の煙が見えました。

 地震発生後、当番者が庁内のすべてのガスの元栓を確認してまわるなど、気象台から火事を出すなという認識は、皆が持っており、それは心配していませんでしたが、延焼が心配でした。

 午後になると、風が南寄りに変わり、長田区付近の火災の煙の流れは右から左へと変わっています(写真2)。

写真2 神戸海洋気象台の露場から見た長田区付近の火災(1月17日夕方、右端は使われていない百葉箱)
写真2 神戸海洋気象台の露場から見た長田区付近の火災(1月17日夕方、右端は使われていない百葉箱)

 気象台付近には長田区付近の火災のものと思われる白い燃えかすが雪のように多数降ってきましたが、午前中に一時黒い燃えかすが降っていたときとは、あきらかに火災の状況が変化したと感じました。そして延焼による火災を心配する必要がなくなったと感じました。

レーダーに映った火災で生じた雨雲

 兵庫県南部地震により発生した長田区を中心とした火災は、強い上昇気流を生じさせ、対流性の雲が発達し始めましたが、当時は弱い冬型の気圧配置であり、対流性の雲が発達する気象状況ではありませんでした。

 しかし、気象庁のレーダーには、長田区付近に1時間に10ミリから20ミリのやや強い雨を降らせる雨雲が観測されました(図1)。

図1  レーダーエコー合成図(1月17日12時)
図1  レーダーエコー合成図(1月17日12時)

 これは主として大火によって生じた煙や、巻き上げられたほこりなどによるものと思われ、雨は降っていません。

 神戸海洋気象台の観測によると、「顕著な煙」が17日午前06時30分から翌18日午前02時30分まで観側されたことが記載されています(図2)。

図2 神戸海洋気象台の観測記録(1995年1月17日:記事欄には6時30分から顕著な煙を観測したという記述がある)
図2 神戸海洋気象台の観測記録(1995年1月17日:記事欄には6時30分から顕著な煙を観測したという記述がある)

 大気現象としての「顕著な煙」は、よほどのことでないと観測しませんが、そのよほどのことが起こったのです。

 神戸海洋気象台では1日に4回(3時、9時、15時、21時)雲の状態等を詳しく観測しています。

 これによると、17日15時の観測では、大気現象は「顕著な煙」、現在天気は、観測時または観測の前1時間に降水現象がなく、煙のため視程が8キロとなっています。また、雲頂が羽根状やかなとこ状でない積乱雲があり、全雲量が10分の8、積乱雲の量が10分の1、積雲の量が10分の7となっています。

 つまり、火災により生じた雲が、かなとこ雲を作るまでは至っていないものの、積乱雲にまで発達したという観測です。

乾燥中だが強風下ではない大火

 多くの報道で知りましたが、地震発生とともに個々の自治体消防の対応が物理的に困難というほど火災が同時多発しました。火災現場に阪神地区や近隣地区の自治体の消防車が駆けつけようとしても、あちらこちらで倒壊家屋に進路をはばまれ、道路は避難民のマイカーであふれていたそうです。

 また、その近くのがれきの下から助けを求める声が聞こえて、これを無視してまっさきに火災現場に駆けつけられなかったそうです。さらに、現場に駆けつけても、水道配水網がズタズタになったため、消火栓が断水で使えず、海から水を引こうとホースを何本も繋いでも、その上を避難のための車が通ってホースをズタズタに切りさいていたそうです。

 長田区で大阪、京都、滋賀、和歌山、岡山、広島の65台のタンク、ポンプ車が1000本以上のホースを繋いで消火活動ができるようになったのは、1月17日22時でした。

 その後、1週間の間に、33都道府県の302消防本部が応援に駆けつけていますが、神戸市の焼失面積は56.9ヘクタールで、その約半分が長田区という大火災が発生しました(表)。

表 兵庫県南部地震による火災(1月17日から26日)
表 兵庫県南部地震による火災(1月17日から26日)

 平成5年(1993年)の全国の建物焼失面積は167ヘクタールですから、兵庫県南部地震の火災は、全国の1年間の火災の約4割(長田区だけでは約2割)というものすごい火災ということを示しています。

 長田区では、写真3のように、黒焦げのビルと家々の瓦礫の山という状況が延々と続いていました。

写真3 長田区の火災跡(平成7年(1995年)2月に筆者撮影)
写真3 長田区の火災跡(平成7年(1995年)2月に筆者撮影)

 長田区は、戦前からの古い住宅が並び、可燃物の多いケミカルシューズの小さな工場が密集した地帯(ケミカルシューズの全国シェアは約7割)でした。さらに、不燃住宅の割合が3割と少なく、さらに消防が駆けつけるまで火の広がりを防いでくれる広い道路と公園が少ないということも大火要因になったといわれました。

 神戸市では、ヘリコプターによる消火も検討されましたが、①上空からの消火剤散布や放水では水量が足りないため消火効果が少ないこと、②水圧で倒壊家屋が崩れて埋没者や救助者に危険があること、③ヘリの高度を下げればヘリの起こす風で逆に火勢が強まること、などの理由で見送られました。

 山火事など付近に人がいない火災ならともかく、死傷者やそれを救助する人が多数入り乱れている現場では、ヘリコプター活躍の場が大きく制限されていると感じました。

 長田区を中心とした火災を、強い風にあおられたためと表現した報道もありましたが、長田区から2から3キロしか離れていない神戸海洋気象台の観測では、1月17日の最大風速は北の風6.8メートル(16時00分)です(前述の図2参照)。

 もっとも、火災現場付近では、猛烈な火の手と、それによって生じた強い上昇気流により周囲から空気の流入が起こっており、感覚的には強い風だったとは思います。

 日本での過去の大火は、ほとんどと言っていいほど強風下での大火です。

 兵庫県南部地震の大火は、空気が乾燥しているとはいっても、風がそれほどでもないのに、これだけの規模になっています。

 平成7年(1995年)5月17日に大阪で開催された日本建築学会の調査報告会で、神戸大学の宮崎益輝教授は、火事の延焼速度が関東大震災の10分の1程度の時速20メートルから30メートルなのは、風が弱かったためであるとの発表を行っています。

 もし、風が強ければさらに延焼が広がり、神戸市街地がほとんど丸焼けになる火災となり、死者数も桁違いに大きくなった可能性があったと思います。

火災の教訓

 地震直後に発生した火災は一部では3日間にわたって燃え続けました。

 さらに、小規模ではありましたが、新たな火災も発生し続けました。

 地震後1か月位は、夜になると必ずといっていいほど消防車や救急車のけたたましいサイレンが鳴り響いていました。

 気象台の近くで新たな火事の発生はありませんでしたが、サイレンが聞こえるたびに、火災の延焼という心配が頭をよぎりました。

 外で裸火により暖をとっている人の失火とか、地震発生後の火災の消え残りとか、ねたみや保険金詐欺のための放火とか、原因を憶測する噂がいろいろと飛び交いました。

 しかし、真実かどうかは確かめようがなく、不安感だけが増幅してゆきました。

 結果的には、この新たな火災発生の多くは通電火災でした。

 ピーク時で100万世帯、1月18日夕方でも20万世帯が停電となっていましたが、1月23日には、家屋の焼失や倒壊で送電出来ない2万世帯を除いて電気は仮復旧されています。

 このとき、関西電力では、ラジオで繰り返し「電気を通すので火災に注意」と呼び掛けていましたが、倒れたはずみで電気器具のスイッチが入っていたことを知らなかった、電化製品のコードが落下物によって破損し、通電後に熱を帯びていることを知らなかったなどの理由から、新たな火災が発生したのです。

 ただ、原因が通電火災とわかると、住民の要望によって急いで通電するのではなく、安全を十分に確認してから通電するようになり、新たな火災発生はなくなっています。

 長田区の東隣の兵庫区では、道幅を広げて防火帯兼緊急輸送道路をつくり、道路沿いに鉄筋コンクリートのビルを並べて防火壁とするなどの区画整理が進んでいる地区があり、ここでは火事が広がりませんでした。また、生け垣や公園の植栽樹が火災の延焼をくいとめるのに大きな効果があったことが指摘されました。

 さらに、兵庫県南部地震に際して、ガソリンスタンドの建物被害は周辺の建物に比べて軽微であり、ガソリンスタンドが火元となったり、延焼したりしたケースはありませんでした。

 ガソリンスタンドは不燃物を建築材に使い、高さ2メートル以上のコンクリート製の防火壁を設け、ガソリンは地下60センチ以上埋めた鋼鉄製のタンク(厚さ30センチ以上のコンクリート室に入れる)に貯蔵することなどが消防法と建築基準法で義務づけられています。

 このため、ガソリンスタンドが火元となる火災を想定した防火壁が周囲からの火災を防ぎ、コンクリート製の耐火壁が建物の耐震強度を高めていたため、ガソリンスタンドの被害が小さく、震災からの復興を支える拠点となっていったのは必然のことでした。

 このように、兵庫県南部地震によって発生した火災の延焼を防ぐことができた成功例がゼロではありません。

 これらの成功例は、もっと拡大し、もっと充実して、日頃からの防災対策に生かすことが重要と思います。

タイトル写真、写真1、写真2、写真3、図1、表の出典:饒村曜(平成8年(1996年))、防災担当者の見た阪神淡路大震災、日本気象協会。

図2の出典:気象庁ホームページをもとに筆者作成。

参考:

防災担当者が見た阪神淡路大震災から30年(1)通常通り業務を継続した神戸海洋気象台の取材対応とその後

防災担当者が見た阪神淡路大震災から30年(2)情報がないのが立派な情報 幻のスクープ「神戸震度6」

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ありがとうございます。
気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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