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「残ったのは借金1億円」能登半島地震で被災した料理人が直面する復興のジレンマ#災害に備える

岸田浩和ドキュメンタリー監督


2024年3月、フランス発祥でミシュランと並ぶレストランガイド「ゴ・エ・ミヨ」の授賞式が、東京・丸の内で行われた。注目を集めたのは、業界の牽引を期待される料理人に贈られる「明日のグランシェフ賞」を受賞した川嶋亨さん(39)だ。川嶋さんが故郷の石川県七尾市に構える日本料理店「一本杉 川嶋」は、能登の食材にこだわり、京都で修行を積んだ繊細な出汁(だし)の技術で素材の味を際立たせる料理が特徴だ。 2020年7月の開店から1年足らずで「ミシュランガイド北陸2021」の一つ星に選ばれ、国内外から客が訪れる「予約困難店」となった。だが、1月の能登半島地震で大きな痛手を受け、いまだ営業再開にはいたっていない。それでも地元のために踏ん張ろうと決めた川嶋さんの奮闘を追った。

■すべてが崩れ去り、残った借金

能登半島地震が起きた2024年元日、川嶋さんは、関西の妻の実家に家族で帰省中だった。地震の第一報を聞いたのは、京都・北野天満宮での初詣の最中だった。すぐさま七尾の和倉温泉の実家に電話をかけ、両親に「高台に避難するように」と促した。電話口からは、ただ事ではない様子が伝わってきた。

その後、七尾市内にいた知人が電話で店の様子を知らせてくれた。「外壁が崩れてしまって……」という知人の声は、「通りの建物も何軒かは倒壊して、瓦やガラスが通りに散乱している」と話すうちに嗚咽へと変わっていった。

川嶋さんの店は、国の有形文化財にも選ばれた築92年の古民家だ。もとは文房具店の建物で、窓が万年筆の形に装飾され、一本杉通りのシンボルとして親しまれてきた。七尾出身の川嶋さんにとっては格別の思い入れがあり、この建物を受け継ぎ、次の時代に残していくことが自分の使命だとの自覚を持っていた。知人からの報せを聞き、頭が真っ白になった。

震災直後の「一本杉 川嶋」の様子。右が国の有形文化財にも指定されている築92年の文具店跡を改装した店舗。左の建物に宿泊施設の開業を予定していたが、倒壊の危険がありすでに解体された。(写真提供:川嶋亨)
震災直後の「一本杉 川嶋」の様子。右が国の有形文化財にも指定されている築92年の文具店跡を改装した店舗。左の建物に宿泊施設の開業を予定していたが、倒壊の危険がありすでに解体された。(写真提供:川嶋亨)


能登に戻ると、厳しい現実が待っていた。文化財である店の外壁の一部が崩れ落ち、壁も傾いていた。店の修復と再開を目指しているが、8月時点では建物の被害状況を確認する審査待ちの段階で、再開は早くても1年半以上先になる見通しだ。4月に開業予定だった店舗横の宿泊施設は、倒壊の恐れがあり、オープン直前で解体を余儀なくされた。川嶋さんには、店舗と宿泊施設の取得や改装に要した約1億円の借金に加え、修業時代から集めてきた器の損害約1千万円が残った。

■京都で開眼し、能登で花開いた料理のスタイル

震災後のイベントで川嶋さんが提供した一皿。かたはの胡麻和え能登ふぐの昆布締めに、土佐酢のジュレ掛け花穂紫蘇をのせた一品。川嶋さんの料理の多くが、能登産の食材を使う。(撮影:岸田浩和)
震災後のイベントで川嶋さんが提供した一皿。かたはの胡麻和え能登ふぐの昆布締めに、土佐酢のジュレ掛け花穂紫蘇をのせた一品。川嶋さんの料理の多くが、能登産の食材を使う。(撮影:岸田浩和)


川嶋さんは幼いころ、一本杉通りの近くに住む祖父の影響で、この通りが遊び場だった。まさか、30年後に自分がここで店を開くとは思ってもいなかった。高校卒業後、料理の道を目指す。「一度も勧められたことはなかったが、料理人だった父の背中を追っていた」という。

20代で、大阪と京都の有名店で経験を積んだ。なかでも影響を受けたのが、京都の日本料理店「桜田」だった。ミシュラン2つ星の有名店で、大将の桜田五十鈴さんのつくる出汁は、数ある日本料理店のなかでも別格と評されていた。普段は辛口の評者も「一品一品の料理の完成度が高いのはもちろん、器や空間すべてに物語があって、五感を通した感動を体験できる稀有(けう)な店」と絶賛していた。

当時のインタビュー で川嶋さんは、「まだ怒られてばかりで、僕なんかがおこがましいですが」と謙遜しながら、「少しでも大将に近づいて、たくさんの人に喜んでもらえる料理人になりたい」と答えていた。

その後、故郷へ戻った川嶋さんは、和倉温泉の旅館で料理長を務めながら、独立の準備を進める。この時あらためて能登の食材のポテンシャルの高さに気づかされ、地元の農家や漁師、畜産関係者などさまざまな生産者とのつながりを強め、独自の仕入れルートを築いていく。それが自らの店の礎となった。

■震災直後に見つけた希望

震災直後の炊き出し活動の様子。川嶋さんの呼びかけで地元の料理人たちが集まり、3月まで活動を続けた。(写真提供:川嶋亨)
震災直後の炊き出し活動の様子。川嶋さんの呼びかけで地元の料理人たちが集まり、3月まで活動を続けた。(写真提供:川嶋亨)

震災後、川嶋さんが最初に取り組んだのが、現地での炊き出しだ。地元の料理人仲間に呼びかけてチームを作り、1月4日には活動を始めていた。「自分にできる事はなにかと考えたら、これしかなかった」と川嶋さん。

避難所で温かいスープを提供すると「温かくて、おいしい。ありがとう」と涙を流す被災者から握手を求められた。自分たちがいまやるべき事は、料理を通じて人々に安心を与えることだと確信した。

川嶋さんたち自身もまた被災者だ。炊き出しメンバーの多くが、店舗や自宅に被害があり、営業再開のめどは立っていない。家に帰って自分の店のことを考えると「不安に押しつぶされそうになるが、「炊き出しに向き合う事で、必要以上に落ち込まず救われた」という。

2月に入ると、支援団体「北陸チャリティーレストラン」の協力で、炊き出し活動は個人や企業からの寄付を義援金として受けることができるようになった。「みんな休業を余儀なくされており、将来の不安が大きかった」と川嶋さん。「この時期、燃料や材料の経費や活動費のサポートを得ながら、炊き出し活動を継続できたことで、地域にも貢献できた。自分たちの精神的にも大きな支えとなった」と語る。

■葛藤する料理人たち

この時、川嶋さんとともに炊き出しチームで活動した1人が、羽咋市のフランス料理店「ラ・クロシェット」のオーナー橋田祐亮さんだ。

フランスの星付き店で修行を積み、帰国後にシェフとしていくつかの店を経験した。能登の自然や食材の可能性に感銘を受けて移住し、2017年に開店した。自家栽培の野菜や能登の食材を使った正統派のフランス料理店として評判を呼んでいた。

羽咋市のフランス料理店「ラ・クロシェット」のオーナーシェフ橋田祐亮さん。窓からの田園風景にほれてこの地に開業した。この地での再建を目指すが困難も多く、県外へ移転するべきか揺れ動く。(撮影:岸田浩和)
羽咋市のフランス料理店「ラ・クロシェット」のオーナーシェフ橋田祐亮さん。窓からの田園風景にほれてこの地に開業した。この地での再建を目指すが困難も多く、県外へ移転するべきか揺れ動く。(撮影:岸田浩和)

橋田さんは当初、建物の被害は軽いと考え、営業再開を視野に入れていた。だが、後に地盤沈下が発覚。敷地の端が20センチ以上沈み込んでしまい、厨房や客席の一部が徐々に傾いていった。基礎ごと沈んでいることから、地盤改良と建て直しが必要とわかった。

建て直しに公的な助成を活用しようとしたが、賃貸物件だったため橋田さんには申請資格がなく、断念せざるを得なかった。

一方、キャリアや実績のある橋田さんには、都市部の飲食店から仕事の誘いや出店の打診などの声がかかっていた。ここに残るべきか、離れるべきか。能登の可能性と生活再建のはざまで心が揺れた。

それでも選んだのは、能登に残る道だった。現在の大家から土地を買い取り、店を建て直せないか検討している。再開資金を得るために、クラウドファンディングを実施。土地の沈下を免れた一部の客室を使い、部分的な営業も再開した。足を運んでくれていた常連さんたちの声に触れ、前向きな気持ちになれたことで決心が付いたという。

■復活の条件

店舗の再建を目指す川嶋さん。(撮影:岸田浩和)
店舗の再建を目指す川嶋さん。(撮影:岸田浩和)

同じころ、川嶋さんも休業中の店舗の向かいにあった古民家を購入し、総菜や弁当を売るアンテナショップとカフェにする計画を進めていた。この物件は、震災で空き家になった古民家のひとつ。取り壊して更地になるといううわさを聞いた。「ここがなくなると、一本杉通りの景色が変わってしまう」と危機感を感じた川嶋さんは、壊さずに活用したいと手を挙げた。

休業で店の厨房が使えない川嶋さんは、ここに広めのキッチンを置き、ケータリングや料理イベントの仕込みに使えるようにするつもりだ。働き場を失ったほかの料理人らにも加わってもらい、商店街復興の起点にしたいという。自分の店が再開すれば、ここは地域の料理人たちに引き継ぐ考えだ。

8月初旬。川嶋さんは家族と共ともに、一本杉通りの商店主たちで企画するイベント「一本杉復興マルシェ」に出店していた。仮設テントの中に折りたたみ机を置き、コピー用紙に印刷したか急造の看板と手書きのお品書きを掲げた。

メニューは穴子2本をぜいたくに使った「煮あなご弁当」。開店と同時になじみの客たちが次々と訪れ、1時間足らずで用意した60食を完売した。客たちは「川嶋さんのお店の味が忘れられなくて来ました」「再開、楽しみにしています!」などと口々に声援を送った。「こうした声が背中を押してくれるから、進んでいける」と川嶋さん。

川嶋さんが苦しくても再建を目指す理由は、ほかにもがある。

川嶋さんは、地元の食材をメニューにふんだんに取り入れている。生産者や流通にたくさんの地元の人たちが関わっており、地域経済の循環に寄与している。国内外からの来客は、観光産業へのにも貢献にもなる。さらに大きいのは、店の存続が有形文化財の建物を後世に残すことになる点だ。飲食店がひとつ町から消えることは、歴史や地域経済に波及すると気づいたのだ。「大好きな故郷を、大好きな形のまま後世に残していくためにも、自分が踏ん張る理由がある」と川嶋さんは考えている。

将来のビジョンは、どう描いているのか?

再建計画の本丸は、あくまでも「一本杉 川嶋」の再開だ。ただ、実現するのはには早くて2026年の春だと見ている。

「ぼく一人が生き残っても意味はないし、そんな状況は考えられないです。一本杉川嶋の再開を実現させるためにも、料理人仲間や生産者、商店街のみなさんと一緒に復活することが重要なんです」

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【この動画・記事は、Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事です。クリエイターが発案した企画について、編集チームが一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動はドキュメンタリー制作者をサポート・応援する目的で行っています。】

ドキュメンタリー監督

京都市出身。立命館大学、ヤンゴン外国語大学、光学メーカーを経て、ドキュメンタリー制作を開始。2012年に「缶闘記」で監督デビュー。2016年の「Sakurada,Zen Chef」は、ニューヨーク・フード映画祭で最優秀短編賞と観客賞を受賞した。2015年に株式会社ドキュメンタリー4を設立。VICEメディア、Yahoo!ニュースほか、Webメディアを中心に、映像取材記事を掲載中。シネマカメラを用いたノーナレーション方式の制作が特徴。広告分野では、Google、UNICEF日本協会、妙心寺退蔵院などのプロモーション映像制作に携わる。関西学院大学、東京都市大学、大阪国際メディア図書館で講師を務める。

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