生き延びてこの目で見届けよう ニューヨークの仮の死と再生
5月7日。自宅待機47日目で、7週間も家にいる。1年の7分の1だ。
この1カ月、これまで見たことも聞いたこともないものを目の当たりにしてきた。
先月私は「『大根欲しい』が命取りになる 失敗から学ぶロックダウンへの備え」(4月5日)を書いた。新型コロナウイルスの感染拡大で、大根一本だけを買いに行く「自由」、人と笑みやジョークを交わす「自由」、愛する人の最期に立ち会う「自由」を失ったことを知って呆然として綴ったものだ。
4月7日。散歩中、近所の病院脇で、遺体安置用の保冷車に出くわした。通りすがりに冷やっとした空気を感じたので、振り向くと真っ白な保冷車2台に、真新しい星条旗が下がっていた。大きなレンズのカメラを下げたマスクのパパラッチが3人、遺体袋が院内から出てくるのを待って張り込んでいる。
4月12日、保冷車が4台になった。1台でも巨大コンテナであるにもかかわらず。
この頃、遺体を処理するキットが院内で足りず、遺体を一時的に置くために、多くの病院が保冷車をレンタルしていた。中西部にあるメーカーは、生産が追いつかず、入手できない病院もあった。CNNがスクープした写真では、保冷車がない病院で、床に置くのも忍びないと思ったのか、椅子やら引き出しがついたキャビネットなどに遺体袋を立てかけていた。
新緑のセントラルパークに急遽できた野営病院も、モルグが隣接された。ICUに入った人の多くが、病院の建物から生きて出ないことは既知の事実だった。
散歩ルートに、遺体が虚しく横たわる保冷車がある。見慣れた街並みに「死」が混在しているのを見るのは、おそらく100年に一度ぐらいのことだろう。そこに私はいる。
スーパーなどでは入荷しないのか、生花は消えた。しかし、生花専門店は開いている。目立つところにあるのは、葬儀用にアレンジされた花だ。
保冷車、野営病院、葬儀の花、鳴り止まない救急車のサイレン―。ウイルスは目に見えないのに、可視化された「死」。
今では当たり前になったマスクや手術用手袋も、異常なシナリオに出てくる小道具の一つだ。私が住むクィーンズでは、外出している人はほぼ100%、マスクやバンダナなどを着けている。スーパー・デリ・酒屋のレジ、レストランの入り口には、透明の板が即席でできた。パチンコ屋の景品窓口のように小さな窓があり、そこで商品やテイクアウト、支払いのやり取りをする。
スーパーでは、お客が商品を置いた台に、レジ係がせわしなくアルコール消毒剤を噴霧する。カゴやカートも消毒される。プラスチック板、消毒剤は、「あなたが私にうつすかもしれない、私があなたにうつすかもしれない」という前提に立ったものだ。そこにも「死」への不安を感じる。
1カ月たった5月7日。連日10度前後だった気温がやっと20度ちかくなり、日差しが眩しい1日で、長い散歩に出かけた。そして、少しずつ、ニューヨークという街が仮死状態から必死に目覚めようとしているのを感じた。
クリニックの前には、新型コロナの抗体検査を受けようとする人々が「社会的距離」を取りながら、数十メートル並んでいた。抗体検査は、自分が過去に感染したかどうかを知っておきたいという前向きな気持ちからだろう。
また、銀行や国際送金屋も長蛇の列。新型コロナ対策個人向け給付金が徐々に口座に振り込まれたり、小切手で来るようになった。長い列は、移民が、母国の実家にやっとのことで仕送りを始めたためだろう。
気分が少し明るくなったので、ベーグル屋に立ち寄った。人気の店なので、混んでいないか外からガラス越しに店内を見ると、二人ぐらいしか並んでいない。リスクを回避して2カ月テイクアウトも避けていたのに、ふらりと入ってしまった。途端に、背の高さぐらいの赤い消毒液マシーンが両側で、私を迎えた。従業員を守ろうという姿勢は好感が持てる。
ツナサラダのベーグルと家では飲まないコーヒーを買い、2カ月ぶりのテイクアウトに少し緊張したので、出口のカウンターで一息ついた。そして、店内を見回し、なぜか急に寂しくなった。
ベーグル屋は、お客一人一人が「プレーンをトーストして、チャイブ入りクリームチーズを多めに、オニオンとスモークサーモン、コーヒーはホットでアーモンドミルクにして」と細かく注文するため、従業員がやたらに多い。一度ここで数えた時、18人のラティーノが互いにぶつかりそうになりながら、文字通り飛び回っていた。
今日はたったの5人だった。出前に出ている従業員数はわからない。しかし、店内のイートインを再開しても、社会的距離を守るなら、お客の数はほぼ半分にしなければならないだろう。したがって、従業員も前ほどはいらない。3月上旬にいた全員が戻ってくるわけではない。
経済活動が再開したとしても、もう以前には戻らない“ニューノーマル”。頭ではわかっていたが、ベーグル屋で言葉と実態が合致し、「もう前のような活気は戻らないんだ」という喪失感に襲われたのだ。
4月上旬、私は「4月は生き残ることを目指す」と書いた。
5月7日現在、「生き残る」は2021年を迎えるまでの目標だ。
マスク、ビニール手袋、アルコール消毒液、レジのガラス板―。自分あるいは他人の「死」にかすかに思いを至らせるこれらの小道具は、来年または半永久的にニューヨークの風景に残る。
それでも、私はこの危機の間、ニューヨークの下町クィーンズにいてよかった。
3月、友人のウエイター、バーテンダー、アーティスト、ミュージシャン、フォトグラファー、テレビ局職員、みんな仕事を一瞬にして失った。感染ピークの4月、保冷車を見た。ICUで働く看護師の話を聞いて、涙が出そうになった。
しかし、私はこの街の一部として、すべて目撃していかなければならない。
そうしていれば、たとえ変わり果てた姿でも、ニューヨークが仮死から蘇るのを見届けることができるだろう。
最近、ビリー・ジョエルの「Miami 2017」が耳の中で鳴っている。1976年にリリースされた「Turnstiles(地下鉄駅の回転棒、日本のアルバム名はニューヨーク物語)」の最後の曲だ。1970年代のニューヨーク経済の崩壊は、「こんなんだったよ」と、2017年に生き延びた人物が回想しているという設定。
この歌詞が現在の昏睡するニューヨークを言い当てている気がしてならない。ニューヨーク経済が破綻していた1976年にビリーが作ったこのSFみたいな曲で、2020年を予言していたかのようだ。歌詞はこんな感じだ(自己流に訳した)。
「ブロードウェイの灯が消え、エンパイアステートビルが倒壊する。ブロンクスは吹っ飛び、マンハッタンは海に沈み、クィーンズは生き残る。バージニア州の基地から戦艦が来て、ヤンキーズを無料で救い出す」
今は実際、エンパイアステートビルは立っているが、ブロードウェイは閉鎖された。沈んだわけではないが、マンハッタンの金持ちはみな、郊外か避暑地の別荘に避難した(逃げるために新築したり購入した人までいる)。巨大な富を生み出し、動かしていた役者らが退場した後、ゴーストタウンで、軽犯罪が増えている。対して、クィーンズはもともと富とは無縁の下町で、貧しいが故に新型コロナの感染率はマンハッタンの2倍だが、逃げ場もないため生活感はあり、しぶとく生き残っている。
曲の末尾はこんな風だ。
「みんな(フロリダ州)マイアミに逃げて生き延び、誰もブロードウェイが明るかったことなんか覚えていない」
ビリーの歌詞のように、新型コロナが私たちの生活をこんなに破壊したことが思い出せない、形骸化する時がいつかは来るのだろう。数々の戦争や危機、テロがすでに記憶のかなたになっているように。
(了)