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35年越しに叶えた夢—諏訪理・米田あゆ宇宙飛行士が語る「プロセス」の価値

林公代宇宙ライター
約35年前のNASAレポートが掲載された雑誌を前に話す諏訪理さん(右)、米田さん

「諏訪理さんってNASAツアーで一緒だった、当時小学5年生の諏訪君?」。2023年2月末に発表されたJAXA宇宙飛行士候補者・諏訪理さん、米田あゆさんの記事を読んだ三宅丈夫さん(元学研編集者)からのメッセージに、心底驚いた。

記者会見で諏訪理さんが「小学5年生の時にアポロ17号で月面を歩いたサーナン飛行士に会う機会があり、宇宙飛行士という職業に興味をもった」と話すのを私は会見場で聞いていた。だが、サーナン飛行士と諏訪少年が出会ったその貴重な場に私も同席していたことを、同じくその場にいた三宅さんから教えてもらうまで気づかなかったとは…。

そういえば、と記憶をたどる。1988年3月に行われた日本宇宙少年団(YAC)×学研合同のNASAツアーだった。6人の小学生たちと、NASAケネディ宇宙センターやジョンソン宇宙センターなど米国各地のセンターや、ワシントンD.C.の航空宇宙博物館などを回る宇宙てんこもりのツアー。そのハイライトが、アポロ17号の船長を務め月面を歩いたユージン・サーナン飛行士との対面だったのだ(私は当時、YAC職員として同行し、取材交渉や通訳などを担当した)。

当時のNASAツアーレポートが掲載された学研の「5年の科学」と日本宇宙少年団の情報誌「L5」の一部。(提供:(株)Gakken、日本宇宙少年団)
当時のNASAツアーレポートが掲載された学研の「5年の科学」と日本宇宙少年団の情報誌「L5」の一部。(提供:(株)Gakken、日本宇宙少年団)

アラバマ州のNASAマーシャル宇宙飛行センターに隣接するスペースキャンプで。赤丸が諏訪理少年。右斜め上に筆者。(提供:(株)Gakken、日本宇宙少年団)
アラバマ州のNASAマーシャル宇宙飛行センターに隣接するスペースキャンプで。赤丸が諏訪理少年。右斜め上に筆者。(提供:(株)Gakken、日本宇宙少年団)

諏訪さんはなんにでも興味をもつ、元気で利発な小学生だったという印象が残っている。サーナン飛行士に会い宇宙飛行士という仕事を意識した諏訪少年は、大学院卒業後、国際開発という道を選ぶ。どんな思いでその道に進み、NASAツアーから約35年を経て、いかに宇宙飛行士という夢を叶えたのか。三宅さんと共に「その後の道のり」についてJAXAでお話を伺う機会を頂いた。

サーナン宇宙飛行士の印象「魅力あふれるやさしい人」

「覚えていますか?」。おそるおそる問いかけると「もちろんです!」と笑顔で答えて下さった諏訪さん。NASAツアーのどこで何を見たか、克明に覚えておられた。サーナン飛行士のお話で印象に残っていることを訪ねると、こんなエピソードが。

「サーナン飛行士にお会いすると知り、(出発前に)サーナンさんに関する本を探したんです。とてもお茶目な人のようで、ヒューストン(の運用管制センター)を驚かすために『月の裏から出てきた瞬間に音楽をかけた』みたいな話を読んだんです。『それは本当だったんですか?』とサーナンさんに聞いたら、『俺の秘密を何で知ってるんだ?』みたいな返し方をして下さって。魅力あふれるやさしい方でしたね」

サーナン飛行士と子供たちは車座になって座り、子供たちの質問にサーナン飛行士は目線を合わせてやさしく答えて下さった。最後は肩を抱いて記念撮影、サインを一人一人に下さった。この出会いが、約35年後に一人の宇宙飛行士を生むことになる。

サーナン飛行士との対面のようす。学研「5年の科学」1988年10月号より。(提供:(株)Gakken)
サーナン飛行士との対面のようす。学研「5年の科学」1988年10月号より。(提供:(株)Gakken)

1988年3月にお会いした時、サーナン飛行士は一人一人にサインを下さった。
1988年3月にお会いした時、サーナン飛行士は一人一人にサインを下さった。

3つの夢をどれもあきらめたくなかった

小学5年生でアポロ飛行士と直接話し、宇宙飛行士を職業として意識した諏訪さんは、大学で地球科学を学び、大学院を卒業後は青年海外協力隊員としてルワンダへ。その後は世界気象機関(WMO)や世界銀行で国際開発の仕事に従事する。なぜ、宇宙飛行士を目指した少年が、国際開発の道を歩んだのか。

「色々なことに興味があったと思うんです」。諏訪さんは語り始めた。

「宇宙開発には興味があった。でも宇宙飛行士になるのは現実感がないところもありました。その後、日本人で初めて秋山豊寛さんが宇宙に行き、毛利衛さんらが続いて『やっぱり宇宙飛行士っていいな』と。でも他のことにもいっぱい興味があって、歴史が好きで考古学者になりたいと思ったし、自然科学分野の研究者にも憧れました。全部を叶えることはできない。『何が本当にしたいんだろう』と悩みながら10代、20代を過ごしました。その中で残ったのが、地球科学と国際開発と宇宙開発だったんです」

国際開発とは、開発途上国や地域の人々を支援し、国際社会の平和と安定、発展に貢献することを目的とした活動だ。3つのどれもが壮大な目標であり、一つを実現することすら簡単でないように思える。諏訪さんは次の一歩をどう踏み出したのか。

「一生の中で全部叶えるのは難しいだろうと思いつつ、一つを選ぶことで他の2つをあきらめるという人生設計をすることが、いやだったんです。あきらめたくない。だから何かを選ぶときに他の2つの可能性を残すような選び方をしたいと考えました」。

あきらめたくない。具体的には大学で何を学ぶか選択を迫られた。諏訪さんが大学に入学したのは1995年。その頃、世界では気候変動の問題が大きくなり、97年には温暖化に対する国際的な取り組みのための国際条約「京都議定書」が採択された。諏訪さんが地球科学を専攻することに決めたのはそんな時代背景に加えて、サーナン飛行士と一緒に月面を歩いたハリソン・シュミット飛行士が地質学者であり、地球科学が「宇宙に繋がる学問だ」と意識したこともあるという。

「今年の2月にNASAでハリソン・シュミット飛行士に会う機会があり『あなたがジオロジー(地質学)を学んでいたから私もジオロジーを選んだ』と話したら『そうか!』と仰って下さいました」(諏訪さん)。

月面で試料の採取を行うアポロ17号のハリソン・シュミット飛行士は地質学者だった(提供:NASA)
月面で試料の採取を行うアポロ17号のハリソン・シュミット飛行士は地質学者だった(提供:NASA)

国際開発の夢があきらめきれず、ルワンダへ

地球科学を学び博士課程へ。「研究者になろうか。でも国際開発の夢を捨てられない。宇宙飛行士の募集はなかなかないし‥」。3つの選択肢の間で揺れる諏訪さんが気になったのは、自身が国際開発の現場を知らないことだった。

「国際開発と全然違う畑(地球科学の研究)で学んでいたので、国際開発で人生を過ごしていいのか、よくわからなかった。とりあえず2年間途上国に行って何かできるか。国際開発が自分のいる場所だって思えないと仕事として成り立たないと思ったんです」

そこで諏訪さんは大学院卒業後、青年海外協力隊員として2年間ルワンダへ向かう。高校と大学で教鞭をとった。「かなりポジティブな経験でした。『こういうところで地球科学のバックグラウンドを活かして仕事がしたい』と思って国際開発の道に進もうとした矢先、JAXAの宇宙飛行士候補者募集(2008年)を知ったんです」

ルワンダから一次試験を受けに行ったものの次の段階には進めなかった。当時31歳。その後も宇宙飛行士候補者募集を待ったが、40歳を過ぎた時点で「宇宙飛行士は叶わない夢だった」といったんあきらめる。「国際開発の仕事も好きだったので、これはこれで素敵な人生だし、この仕事を頑張ることで自分のやりたかったことを実現できると。でも宇宙のデータを使うとか『宇宙のフレーバーをつけた仕事もしたい』と思った直後に、今回の宇宙飛行士候補者募集が出たんです」。そして、ついに宇宙飛行士の夢を現実にする。

米田あゆさんが小児外科を選んだ理由

一方、米田あゆさんは小学生の時に向井千秋さんの伝記漫画を読んだのが、宇宙に興味をもつきっかけだったと記者会見で語った。その後、なぜお医者さんに?

「小学生の時、宇宙飛行士に憧れはありましたが、どこかスーパーマンのような存在でした。中学高校の職業選択の際、自分は何をしようかと考えたときに科学が好き、人とコミュニケーションをとるのが好き、自分の力で人を救うことができるのは尊い仕事だと思い、医学部に進もうと決めました」

子供が好きだった米田さんは、小児医療に携わりたいと考えた。医学部の時には(病院内の)院内学級で医療ボランティアのスタッフとして、子供たちと一緒に勉強した。

「子供たちが将来の夢を語ってくれました。パイロットになりたいという男の子がいたりして、その夢を実現させてあげたいなと思うようになったんです。病気だと難しい瞬間はあったりするけど、それでも夢をもってほしいと小児医療への思いを強くしました」

小児医療の専門を決める際、米田さんは小児外科を選ぶ。その理由にも「誰かの夢を叶える」ことが深くかかわっていた。

「自分の手を動かして子供を助けたいなと。生まれたての赤ちゃんで食道と胃が繋がっていない病気があり、ミルクを飲んでもすぐに吐いてしまう。手術をして繋げてあげるとミルクを飲めるようになってうんちが出る。体重が増えていくのを見た瞬間、『自然の中で生まれていたら助からなかった命が、医療の手が介在することによって大人になることができる方が多数いる。そういう子供たちの夢をのばしていきたい』と思ったのです」

そんな思いを抱いて医療現場で邁進しているとき、宇宙飛行士候補者の募集を目にした。「医療現場を離れることに、まったく葛藤がなかったわけでは正直ありません。でも私の活動が、次の新しい世代の子供たちが夢をもつきっかけになるような発信をしていけたら」。

米田さんが記者会見で次世代について語るたびに表情がぱっと明るくなり、「私の頑張りや活動が他の誰かの力になり、勇気を受け渡す連鎖が生まれたら」と語る背景に、小児外科医として子供たちと向き合った経験があると知り、胸が熱くなった。

自分の専門を宇宙開発に活かす

お2人の話を聞き、「どうやったら社会に貢献できるのだろうか」「自分はどんな人生を歩むべきなのか」に対して真摯に向き合ってきた事実に、大きな感銘を受けた。また宇宙が好きであるだけでなく、別の専門分野をもっていることの強みも感じた。

2月23日の記者会見で、山積する地球の課題解決に宇宙開発は何ができるか、ご自分の専門をどういかしていきたいかを尋ねた。

諏訪さんは「まだまだ可能性はいっぱいあって、最大化できていないと感じている。地上にある様々な解決策に加えて、宇宙からの観測データをどう使うのか。実際に使われているがまだ有効活用していく余地はあると思うので、一層進めていきたい。鍵になるのは、衛星データを使いこなせる現場の人材育成や人材開発。宇宙開発は科学や技術に若者が興味をもつフックになる。そういう点も今後、最大化していきたい」と語った。

一方、米田さんは、医師の立場から宇宙飛行士に起こる加齢現象をあげた。「宇宙に行くと加齢現象に似た現象が短い時間で起こることが知られています。その時に体の中で何が起こっているのか、どんなお薬が作用するかなどを実験できる。宇宙でしか得られない知見をフィードバックして、より健康な地球の医療に繋げていけるのではないか」

プロセスを楽しむこと

一度はあきらめかけた宇宙飛行士の夢を叶えた諏訪さん。最初の宇宙飛行士候補者への応募の際は「結果を意識しすぎていたのかな」とふり返る。

「宇宙飛行士になれるかなれないかは、一瞬で判断されてしまう。でももっと大事なのは『プロセスを楽しむこと』だなと思います。今回の選抜では、結果より『自分がやりたかったことに挑戦しているというプロセスを楽しむ』という思いがありました。人生ってほとんどがプロセスじゃないですか。それを楽しめないと人生って充実したものにならない、とこの年になって思うようになったんです」

結果より「どう生きるか」。諏訪さんは2度目の宇宙飛行士への挑戦で準備したことについて、「日々の仕事を一生懸命すること」と語っていた。夢を心の片隅に留めつつ、目の前の人や課題に真摯に向き合い、一日一日を生きる。その積み重ねの日々がお2人の人生を輝かせ、宇宙飛行士という夢までをも引き寄せたのだ。

出会いから36年後、素敵な宇宙飛行士になった諏訪さんに、大切なことを教えて頂いた。お2人が月を歩く日まで、応援しつつそのプロセスを見つめ続けたい。

※本記事は三菱電機DSPACE「読む宇宙旅行」に掲載された「35年越しに叶えた夢ー諏訪・米田宇宙飛行士が語る「プロセスの価値」に一部修正を加えたものです。画像はNASAの提供画像をのぞき、著者撮影。


宇宙ライター

神戸大学文学部英米文学科卒。日本宇宙少年団情報誌編集長を経てフリーライターに。宇宙・天文分野を中心に取材・執筆。NASA、ロシア、日本のロケット打ち上げ、ハワイ島や南米チリの望遠鏡など宇宙・天文関連の取材歴約30年。「さばの缶づめ、宇宙へいく」(小坂康之氏と共著)「宇宙に行くことは地球を知ること」(野口聡一 矢野顕子 取材・文 林公代 )「星宙の飛行士」(油井亀美也宇宙飛行士と共著)、「るるぶ宇宙」監修など著書・監修多数。

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