【京都市】東山区 『泉涌寺』の御所、守脩親王墓、淑子内親王墓そして朝彦親王墓
東山の『泉涌寺』には、歴代天皇家の菩提所として天皇陵、皇妃、親王陵墓が数多くあります。
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『泉涌寺』の塔頭である『雲龍院」での拝観を終えて、泉涌寺の大門方向に歩いていくと、解脱金剛宝塔の南に賀陽宮墓地と久邇宮墓地があります。
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皇室の菩提所『泉涌寺』仏舎利を祀るお堂の龍図と双龍の襖絵が彩る『雲龍院』特別拝観!
この2つの墓地は、中川宮朝彦親王によって創設された宮家のものです。
宮家墓地の東側に守脩親王墓、淑子内親王墓そして朝彦親王墓があります。
桂宮家11代(最後)・淑子(すみこ)内親王、久邇宮初代・朝彦(あさひこ)親王、梨本宮初代・守脩(もりおさ)親王の3基の宮墓地が見えます。
1881年9月に守脩親王が亡くなられこの地に墓が築造され葬られました。
同年10月3日、淑子内親王が亡くなり葬られ、1891年10月25日に朝彦親王が亡くなり葬られました。
守脩親王は、伏見宮貞敬親王の第10王子。母は不詳。伏見宮邦家親王の弟です。
淑子内親王は、第120代・仁孝天皇の第3皇女。
朝彦親王は、伏見宮邦家親王の第4子、母は女房・鳥居小路信子。1836年、第120代・仁孝天皇の養子になり、興福寺一乗院門跡になりました。
『興福寺』さんとは、「高津商会」も大変お世話になっているお寺様。
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『興福寺』の前身である『山階寺跡』に見る中臣(藤原)遺跡と天智天皇の関係!
なんだか不思議なご縁を感じました。
幕末の動乱を体験した方で、1875年、親王の位を回復し、久邇宮家を創設しました。伊勢神宮の祭主を務め、古儀、旧典調査、考証に努め、1882年には、伊勢に神宮皇學院(後の皇學院大学)を創設されました。
それぞれに拝所が設けられ、鳥居が立つ形です。
安土桃山時代から近代の宮家であった桂宮(かつらのみや)。
世襲の四親王家(ししんのうけ)の一つになるそうです。
1881年、第11代・淑子(すみこ)内親王が没したため、桂宮家は断絶しました。
大河ドラマでも宮家や公家の世界を垣間見れますが、御陵を参ることでも様々なことが学べますね。
淑子内親墓・守脩親王墓・朝彦親王墓
京都市東山区今熊野(泉涌寺境内の南西近く)