『イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』道化をいかに物体化し倒すか?の難題を見事解決
まず最初に一言。
もしあなたが作品を見ていないのならこのページを閉じて真っ直ぐ映画館へ。あと、ここにはネタバレはおろか、あらすじ紹介もありません。映画は一期一会ですから、予告編を見ず、批評も読まずに見るのが一番。で、鑑賞後に良ければ読んでください。
では、ここから本題。
1990年作品への怒りを忘れない
イットとは何なのか? その正体がどんな姿に描かれるのか?
『イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』を見る前の私の興味は、そこに尽きた。
「何だありゃ! 散々話を膨らませておいて結局アレか!」という、1990年の旧作を見終わった時の怒りを忘れていなかったからだ。案の定、あのビデオ作品は特にブームなどを起こすことなく、強烈なピエロのイメージだけを残して忘れ去られていった。
あれから20数年、「もしあの二の舞なら許さないぞ!」と意気込んで、スクリーンの前に座った。
で、結論から言うと、大変満足して映画館を後にした。同じ原作を脚色し映像化してこれだけ違うのだ。それはテクノロジーの発展だけでなく、1990年作の挫折という教訓があったゆえなのだろう。
正体によって倒す武器が変わる
今回、これを書く前に1990年の旧作を見直した(以下、旧作、新作とも鑑賞はスペイン語吹き替え版。日本語訳は木村)。
そうして、重要なセリフのやり取りを見つけた。
少年の一人が「雲のような存在だと勝てない」と嘆くと、もう一人が「だけど、捕食するためには物理的な体が必要だ」と反論するのだ。
イットの正体は化け物(ゴースト)なのか?それとも怪物(モンスター)なのか?という問題である。
それによって倒し方も変わってくる。
好き勝手に現れて消える神出鬼没の霊的な存在であれば、すべての物理的な打撃は効かない。イットを銃で撃っても体を通り抜けてしまうからだ。そこで、十字架やお祈り、聖水、読経などの「聖なる武器」が必要になってくる。
「遊びのある捕食」という矛盾
そもそもイットはその殺し方からしてゴーストっぽい。
イットがモンスターで生物で、殺戮が捕食であるとすれば、あんなに手間を掛ける必要は無い。暗闇に隠れていて、いきなりガブッで良い。
それが、ピエロ姿で踊って、変な顔をして、幻影を見せてからとサービス満点で、その前振りの隙に獲物に逃げられたりもする。
効率を追求する生物の捕食ではあり得ない。猫がネズミをいたぶり殺すこともあるが、それはお腹が一杯になってからだ(殺す前の「怖がらせ」の理由は説明されているが、ここでは明かさない)。
だから、「イット=ゴースト」としたくなる。
が、それだと十字架の登場となりあまりに陳腐な結末であるし、なぜポンプ小屋なのか?なぜ地下下水道という「巣」があるのか?という別の疑問が湧く。
巣があるなら生物じゃないか、モンスターじゃないか。なら、銃の国アメリカの大人なのだ。大小様々な銃器で武装し、何なら最後はダイナマイトでぶっ飛ばせば、イットは死ぬ。
1990年の旧作では先のセリフの通り、物理的な体を伴ってイットは正体を現す。で、その姿形と倒し方を見た私は、怒り心頭に達したわけだ。
こうした様々な難問に『イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』は答えなければならなかった。そして、その解答を私はベストに近い見事なものだ、と感じた。回収し切れていない伏線もあるし、別の終わり方もあったのかもしれないが、あれ以上の代案が浮かばない。
道化の意味を良く理解した好演出
以上、頭でっかちな部分で納得しただけでなく、エンターテイメントとしても十分楽しめた。私は大笑いできた。
イットは道化である。ピエロである。よって怖がらせるホラーとは違う「間」で撮っている。振り向き様にガブリではなく、ワンテンポ入るのだ。
振り向くと変な顔をしているピエロがいて、それから襲う。いるぞいるぞ、と思わせておいて「変な顔」。これで笑わなきゃ嘘である。
それと、冒頭の2つの殺戮には製作者の覚悟が表れていて良かった。
ハリウッドには、“社会的な弱者は殺さない、あるいは彼らへの残酷な殺し方を見せない”という一種のタブーがあるが、それを破っている。
この作品には、そもそも虐待や差別、偏見に苦しむ社会的な弱者――子供、女性、黒人、ユダヤ人、病弱な子、吃音を持つ子、肥満の子など――を応援するというメッセージがある、との私の予断を裏切ってくれた。
“今回は本気だぞ”“怖いぞ”“残酷だぞ”という、この宣戦布告に最初から引き込まれた。
20数年前に怒ったあなたも、ぜひ。