明治時代に大きな変遷があった、和菓子の歴史
お菓子が好きな人は老若男女問わず多いです。
その中でも和菓子はユニークな歴史をたどっていき、江戸時代にその花が開きました。
この記事では明治時代の和菓子の変遷について紹介していきます。
激動の時代に呑まれた京の和菓子店
明治時代になると、京都の菓匠たちは1895年に「京都菓匠会」を結成し、質の高い材料や技術の継承を目的としました。
菓匠会の結成には、1888年に開催された「御題菓展」が影響を与え、その後も婚礼や儀式に使われる菓子の展示会を開催し、京菓子の伝統を守り続けたのです。
一方、江戸では、幕府の御用菓子屋が存在しましたが、その数は京都に比べて少なく、虎屋や桔伷屋といった商家が将軍家に菓子を納めていました。
しかし、幕末には多くの幕府御用商家が衰退し、明治維新後にはほとんどが商売をやめるか、業態を変えることとなったのです。
例えば、越後屋という羊羹で有名な店は明治初期に廃業しています。
また、新たに商売を始めた者もいましたが、武士の商法が原因で短命に終わることが多かったです。
このように、明治維新の影響で菓子業界にも盛衰が見られたものの、特に東京では菓子屋の数が急増しました。
1886年の統計では、東京府区部における菓子屋の数は4,921軒にも上り、米屋や酒屋を大きく上回る規模で営業したのです。
この増加は、材料の供給増加や製菓技術の進展、そして新しい需要層の登場に支えられていたと考えられます。
明治期以降、和菓子と洋菓子の関係も大きく変化しました。
和菓子には、かつて南蛮菓子という西欧由来の要素が含まれていましたが、明治時代に本格的な西洋菓子が流入すると、和菓子と洋菓子が別々のジャンルとして認識されるようになったのです。
それまでは、日本の風土や文化に合わせて、外来の菓子が独自に進化していたのですが、洋菓子はそのままの形で受け入れられたため、「和菓子」という言葉が生まれ、両者が区別されるようになりました。
なおカステラなどといった南蛮菓子は和菓子として扱われるようになったのです。
もっとも、和菓子と洋菓子が完全に分かれたわけではなく、両者を組み合わせた「和洋折衷菓子」が生まれ、和菓子の伝統に西洋の素材や製法が取り入れられました。
その代表例が、1874年に誕生した「あんパン」です。
あんパンは、明治天皇に献上されたことで広まり、その後の和洋折衷菓子の発展に大きく寄与しました。
また、「シベリア」や「ビスケット饅頭」など、洋風の材料を使った和菓子も登場し、和菓子と洋菓子の融合が進んでいったのです。
和洋折衷菓子の登場により、和菓子の表記や分類も変わっていきました。
明治中期には「和洋菓子」という表現が広まり、大正期には「和製菓子」「日本菓子」「邦菓」といった言葉が登場し、昭和期になると「和菓子」という言葉が菓子業界で正式に使われるようになります。
こうして、洋菓子の登場が和菓子を新たな視点で捉え直すきっかけとなり、和菓子というジャンルが確立されていったのです。
明治維新以降、和菓子業界は急激な変化を遂げましたが、その過程で伝統を守りつつも新しい文化を取り入れ、和菓子と洋菓子の間に独自の融合が生まれました。
そして、この時期に生まれた和洋折衷菓子は、和菓子文化の多様性をさらに広げ、現在の和菓子の豊かな発展を支える基盤となっています。
参考文献
並松信久(2021)「和菓子の変遷と菓子屋の展開」京都産業大学『日本文化研究所紀要』第26号