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国家権力と英メディアの綱引き(1) ーサンデー・タイムズと「第3の男」フィルビーの正体とは

小林恭子ジャーナリスト
キム・フィルビーのさまざまな表情 ーグーグル検索より

今年6月上旬以降、英ガーディアン紙をはじめとする欧米の複数の報道機関が、米英の情報機関による大規模な監視行為の実態を暴露する報道を続けている。情報源は元CIA職員エドワード・スノーデンだ(米当局により情報窃盗罪などで起訴。現在、ロシアに住む)。

7日、英情報機関のトップ3人が議会の情報安全委員会で証言を行い、メディアによる報道が、業務遂行において「有害だ」と主張した。アルカイダなどのテロリスト網が「さぞ喜んでいるだろう」と海外の諜報活動を行う組織MI6の長官が発言している。

国の安全保障にかかわる機密をメディアが勝手に暴露するなというメッセージだが、政府側、情報機関側にとっては「機密」が外に出ないようにするのが仕事である。予期された発言だったとも言えるだろう。

その一方で、メディア側は公益のために国家の機密であろうと何であろうと、外に出すのが仕事だ。秘密を守りたい側と情報を出したい側の「綱引き」は常に続く。

国家機密に対する英メディアの過去の対処法を見てみると、機密であることを承知の上で、あえて報道してきた数々の例がある。

例えば、18世紀後半まで、議会での討議を報道することは正式には認められなかった。報道すれば、その出版媒体の発行人が投獄されたり、印刷免許を取り上げられたりなどの苦難があった。

誰が報道したか、誰がどんな発言をしたかを隠すために、架空の国の話として報道したり、議員名を仮名にしたり、掲載時期を議会の閉会中に限ったりなどの工夫があった。今となっては喜劇のようだが、あまりにも凝った仮名やイニシャルなどを使ったために、読者に意味が通じない場合もあったという。また、発言予定の議員の名前や議題から議論の内容を推定し、ほぼ創作して「議事録」として報道したジャーナリストもいた。

過去の英メディアの奮闘振りをたどりながら、国家機密とメディアの関係について考えてみたい。

「第3の男」の正体を暴露(サンデー・タイムズ)

英日曜紙サンデー・タイムズが国家機密と格闘した例の1つが、「第3の男」と呼ばれたキム・フィルビーことハロルド・エイドリアン・ラッセルのスパイとしての正体を暴露した記事(1967年)だ。

フィルビー(1912-88年)は国外の諜報活動を担当するMI6の長官候補にもなった人物だが、ケンブリッジ大学在学中に共産主義を信奉し、ソ連の諜報部にスカウトされた。

英国ではMI6に勤務し、対ソ諜報班のトップとして米英の重要な諜報情報をソ連に流す2重スパイとなった。

1951年、フィルビー同様にソ連のスパイだった英外交官ガイ・バージェスとドナルド・マックリーンにスパイ嫌疑がかかる.

フィルビーは二人に嫌疑がかかっていることを警告し、ソ連への亡命を助けた。 このために、フィルビー自身にも嫌疑がかかってしまう。

1955年、議会でフィルビーが「第3の男」かと聞かれたマクミラン外相(後の首相)はこれを否定した。

フィルビーは一旦MI6を離れた格好となり、英週刊誌「エコノミスト」や日曜紙「オブザーバー」の記者となって、ベイルートに滞在しながら原稿を送った。パーティーに明け暮れる毎日で、「原稿を書いたところを見たことがない」という人もいた(後述のドキュメンタリー作品より)。

1962年末、再度スパイ容疑が高まり、英当局がフィルビーの尋問を始めた。フィルビーは間接的に容疑を認めたという。翌年1月、フィルビーはベイルートから忽然と姿を消した。翌年夏、フィルビーがソ連に亡命したとする記事が地元紙に出た。

1967年、サンデー・タイムズのハロルド・エバンズ編集長はフィルビーがMI6内で何をしていたのかについて、ほとんどの人が知らないことに気づき、部内の調査報道チーム「インサイト」に取材を命じた。

当時、MI5やMI6の存在自体を政府が公式には認めていない状態だった。両組織の関係者、元関係者らは「『公務員機密守秘法』に違反する」という理由から、口を閉ざした。また、フィルビーは「それほど重要な地位にいなかった」とする関係者も多数いたという。

しかし、チームの粘り強い取材から、フィルビーが対ソ諜報班のトップであったこと、ソ連のスパイであったことを探り出し、原稿を作った。

67年9月、エバンズ編集長は外務省から報道差し止め願いの書簡(「国防通知」)を受けとった。諜報機関や諜報部員についての情報を掲載しないようにと書かれていた。

この通知に法的拘束力はないが、政府の法律顧問役となる法務長官が新聞を公務員機密守秘法違反で訴える可能性があった。

熟考の上、編集長はこの通知を無視することにした(エバンズ著「マイ・ペーパーチェース」)。サンデー・タイムズの所有者ロイ・トムソン(当時)が「編集内容には介入しない」という姿勢を常に表明していたこともエバンズ編集長の決定に影響を及ぼしたに違いない。

10月1日付でフィルビーがソ連のスパイであったことを認める記事(息子のジョンをモスクワに写真撮影のために送り、ソ連に住むフィルビーの写真が付いていた)が掲載された。

掲載後、当時の外相は編集長を「売国奴」と呼び、元MI6関係者は「フィルビーはそれほど重要な地位にはいなかった」と記事の内容を否定するコメントを出した。

その後のメディア報道で、フィルビーの地位や仕事の内容についての大まかな部分が明るみに出た。しかし、2013年現在、全貌が判明したわけではない。

「欺瞞を明るみに出す」

国家機密をメディアが報道することの是非を、ドキュメンタリー「寒さの中に出ていったスパイ -ソビエトのスーパー・スパイ、キム・フィルビー」(11月18日、BBC4というテレビ・チャンネルの番組「ストーリービル」で放送予定)の監督ジョージ・ケアリーに、10月中旬にロンドン市内で開催されたイベントで聞いてみた。

ケアリーは「国家の機密を何でもメディアが暴くべきとは思わない」としながらも、フィルビーについての情報は「公に出てしかるべきだった」という。

「諜報機関の上層部にいたフィルビーが二重スパイであったことは、英国の支配者層にとっては大きな失態だった」、「失態だったことを国民に隠していた」。

諜報界が真実を表に出したがらなかったのは、「国の安全保障に損害を与えるからではなく、もっぱら、自分たちの恥を隠したかったからだ」。こうした欺瞞を明るみに出すという全うな理由がメディアにあった、とケアリーはいう。

フィルビーがなぜ長い間、二重スパイであったことを悟られなかったかについてはさまざまな説がある。

先のドキュメンタリーを放送する番組「ストーリービル」のプロデューサー、ニック・フレイザーは、「フィルビーは社会の支配層の一部だった。周囲の職員や政治家、知識層が属する階級の中の、『仲間』だった」と指摘する。

自分たちの仲間であるフィルビーが「国を裏切る、自分たちの信頼を裏切るとはどうしても信じられなかったのだと思う」と筆者に述べた。

フィルビーはロシア(当時はソ連)亡命後、KGB(当時)の英国担当顧問になったが、KGBの建物に入ることさえ長い間許されず、事実上閑職だった。自宅に軟禁状態となって何年も過ごしたという。現地の女性と結婚し、二人で暮らしていた。

ケアリーのドキュメンタリーによれば、英諜報部のトップシークレットが容易にソ連側にわたっていたことをソ連側が信じられず、「フィルビーが英国から送ってきた文書は何年も事務所の隅に重ねられていた」(元ソ連情報部幹部の談)という。

フィルビーは1988年に死去。盛大な葬式が行われたが、ケアリーのドキュメンタリーによれば、それにはわけがあった。ソ連にとっては西側諸国の英国がソ連の二重スパイを抱えていたという不名誉な事実を宣伝する、格好の機会だったという。(つづく)

参考:

拙著「英国メディア史」

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊は中公新書ラクレ「英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱」。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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