プロペラ動力も研究「新幹線を開発した男」の人生 「兵器に関係しない」鉄道へ転じた航空技術者
戦後、新幹線建設の検討が開始されたのは1956年5月、輸送量が限界に達していた東海道本線の線路増設を検討するために国鉄本社に設置された「東海道線増強調査会」においてだった。 当時、国鉄総裁だった十河信二は、かねて広軌新幹線構想を温めていた。若き鉄道官僚時代に十河は、鉄道院総裁・後藤新平の薫陶を受け、鉄道広軌化の実現計画を考案したことがあった。しかし、憲政会(広軌化推進)と政友会(地方未成線の建設優先)の間の政争の具に利用され、実現することはなかった。
「終生、後藤新平を恩師と慕い続けた」(『新幹線をつくった男 島秀雄物語』高橋団吉)という十河にとって、70歳を過ぎて回ってきた国鉄総裁の座は、恩師・後藤新平の果たせなかった鉄道広軌化の夢を実現し、恩を返す千載一遇のチャンスだった。 ところが、この調査会では、国鉄の財政状況や世の中の経済見通しから、広軌別線(新幹線)建設への慎重意見が根強く出され、議論は堂々巡りの様相を呈した(調査会では広軌別線案のほか、既存の線路に狭軌の線路を併設する狭軌併設案、狭軌別線案も検討された)。
業を煮やした十河は、「昭和16年かに広軌の複々線を既に着手したのである。これは充分検討の結果決定したことと思うので今更検討の必要はないとも実は思つていたくらいで、(中略)直ぐに結論が出ると思つていた」(第5回議事録)と、戦前の弾丸列車計画も引き合いに出すなどしながら、慎重派の説得を試みた。 だが、こうした必死の説得も慎重派の抵抗に遭い、具体的な結論が出ないまま、1957年2月の第5回を最後に調査会は散会となったのである。
このように窮地に陥った新幹線構想を救う、特筆すべき役割を果たしたのが三木だった。1957年5月30日、鉄研創立50周年記念行事の1つとして、その研究成果を、一般聴衆を集めて公表する講演会が催された。演題は「超特急列車、東京―大阪間3時間への可能性」(会場:山葉ホール)。講演者は三木忠直(車両について)、星野陽一(線路について)、松平精(乗心地と安全について)、河邊一(信号保安について)の4人だった。