プロペラ動力も研究「新幹線を開発した男」の人生 「兵器に関係しない」鉄道へ転じた航空技術者
レールプレーンについての三木の研究成果は、1950年2月19日付の新聞で「時速二百五十キロメートル、東京、大阪間を二時間半の超々スピードで走る」と報道され、大きな反響を呼んだ。 このレールプレーン構想は、さすがに時期尚早だったものの、三木はその後、飛行機の技術を本来の鉄道に適用し、車両の軽量化・高速化を図る研究を進めた。その成果は、1953年10月17日付の新聞で「国鉄快速列車の設計成る 軽く小さい流線型 東京・大阪間4時間45分」と発表された。内容を要約すると次の通りだ。
「1340馬力のエンジンの付いた電気機関車が客車を牽引する方式で、車体を流線形・小型化し、台車を連接式にするとともに、外板をジュラルミン系の軽合金にするなどして軽量化。また、軽量車両が高速で走行しても横倒しにならないよう低重心にする。これにより、最高時速160km、平均時速125kmと、当時の国鉄の最速列車だった特急「つばめ」の最高時速95km、平均時速69.2kmを大幅に上回る」 ■高速技術、着目したのは小田急だった
この構想の重要なポイントは、軌間1435mmの国際標準軌ではなく、日本の在来線のほとんどで採用されている狭軌(1067mm)のままで、上記のスピードを出せる点にある。つまり、実現可能性が非常に高いのだ。なお、車両の軽量化についての考え方は、三木の言葉をそのまま引用するのが分かりやすい。 「それまでの車両の構造は、だいたい建築を基本技術としてスタートしているわけです。サイドシルがあって、センターシルがあって、そして上の屋根のほうは木造というような構造の客車だった。けれども、飛行機の機体はモノコックなんですよ。全部を軽いスティールならスティールの板構造にして、全部で強度を持たせようという、そういう構造でやれば重さは半分になるじゃないかと」
この記事には、運輸省(当時)のほか、新宿―小田原間のスピードアップを図ろうとしていた小田急電鉄が目を留めた。1948年6月、小田急は戦時統制下の大東急(戦時中、東急、小田急、京王、京急が合同)から独立したものの、依然、東急の影響を受けており、西武系の駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)と、箱根観光の覇権をめぐって激しく対立していた(箱根山戦争)。 箱根山戦争に打ち勝つべく、東急グループ総帥の五島慶太から、「新宿から小田原まで2時間20分かかっているのを半分で走れ」との命令が下ると、同年10月に早くも特急(新宿―小田原間100分)を復活させている。