“ドラフト最下位指名の男”が味わった絶望「もうダメかな…」“遅れてきた大谷世代”佐野恵太が下剋上を果たすまで「甲子園が羨ましかった」
「全国区の選手」ではなかった高校時代
佐野はこれまでも、輝かしいスポットライトを浴びてきたわけではなかった。岡山の「倉敷ビガーズ」でプレーした中学時代はU-15日本代表に選出されたが、広陵での高校3年間は甲子園に届かなかった。岩手・花巻東の大谷や大阪桐蔭の藤浪晋太郎らが勇躍する晴れ舞台とは無縁だった。 「高校の頃は、自分が今、プロに行けそうだとか、全国区の選手だとかは考えていませんでした。甲子園で活躍している選手たちを見て、本当に羨ましいなと思いました」 だから、広陵で大学進学を決意した時期も「1年生の終わりぐらい」と早い。「倉敷ビガーズ」の先輩である野村祐輔に触発されたのだ。彼は広陵から明治大に進んでエースとして活躍し、佐野が高校2年生だった2011年、広島カープからドラフト1位で指名されていた。 「どうにか頑張って明治大学に入学したい思いが強かった。自分も東京六大学野球で活躍してプロに行きたいと考えていました」 佐野は自らの現在地を客観的にとらえられる冷静さがあった。そこから進むべき道を定めれば前を向く。周りに流されることもなかった。
監督に直訴「キャッチャーはやりたくないです」
進学した明治大でも、そういった一面を見せている。高校時代の守備位置でもあった、捕手としてプレーすることを勧められた時期があった。だが、1学年上には坂本誠志郎(現阪神)がいて、試合に出るのは難しい。また、持ち味である打撃に専念したい意思もあった。だから、佐野は善波達也監督(当時)に直訴した。 「キャッチャーはやりたくないです。試合に出られるポジションで、打撃で勝負したいと思っています」 肉体の強化にも励み、大学の4年間で体重は11kg増えた。その狙い通り、彼は着実に前進した。内野手として、2年生の春にデビュー後の東京六大学リーグ戦での打率を見れば、一目瞭然である。 14年春 .143 14年秋 .176 15年春 .241 15年秋 .277 16年春 .302 16年秋 .325 階段を一段ずつ上っていった。高校時代は通算9本塁打にとどまったが、柔らかい打撃が開花し、大学3年生の秋にはベストナインを獲得。プロへの思いが強くなった。 「それまでもプロ野球選手になりたい思いはありましたが、漠然としていました。3年生になって、試合に出られるようになって、頑張ればプロ野球選手になれるんじゃないかと。本当の目標になりました」 4年春もベストナインに輝いたが、ポジションが一塁手だったこともあり、プロからの評価は高くなかった。それでも、打力を期待するDeNAに入団した。高卒組の同期がプロ入りしてから4年。大谷や鈴木誠也らに比べれば“回り道”に映るが、佐野にとっては自らの地歩を固める道のりになった。同じ土俵で戦う日がやってきた。 <つづく>
(「プロ野球PRESS」酒井俊作 = 文)
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