“ドラフト最下位指名の男”が味わった絶望「もうダメかな…」“遅れてきた大谷世代”佐野恵太が下剋上を果たすまで「甲子園が羨ましかった」
いま振り返る運命の日「もうダメかな、と何度も…」
プロ野球人生は悔しさから始まった。2016年10月20日のドラフト会議。東京六大学野球での春秋連覇を目前にしていたことが示すように、明治大にはプロ注目の選手が多かった。寮の食堂で仲間と行方を見守るなか、まず主将の柳裕也が中日に1位で指名され、立て続けに星知弥もヤクルトの2位で名前を呼ばれた。だが、そこからが長い。日は傾き、窓の外は夕闇に溶け込んでいた。 佐野の名前は呼ばれず、支配下選手の指名を終える「選択終了」の文字がモニターに映るたび、絶望の色は濃くなっていく。 「『もうダメかな』と何回も思いましたね。『もうプロへの道はなくなってしまうのかな』という不安な思いがずっとありました」 会議が始まって2時間近く経った時だった。佐野の名前が呼ばれた。DeNAの9位で指名されたのだ。支配下選手87人中、84番目だった。ホッとしたのもつかの間、複雑な感情がこみあげてきた。 「指名は一番下だけど、上位指名の選手には負けたくない。自分で道を切り拓いていかないといけない」 大学生の9位という低評価だったが、周囲からはプロ入りを反対する声は出なかったという。ただ、社会人入りを勧める意見はあった。プロ野球選手を数多く輩出している、母校の広島・広陵の中井哲之監督もそのひとりだった。 「社会人に行って2年後のドラフトで上位を目指してもいいんじゃないか」 だが、佐野は首を縦に振らなかった。 恩師である中井に伝えた。 「今すぐプロに行って勝負したいです」 背中を押してくれる声もあった。佐野の伯父であり、当時、ソフトバンクの三軍打撃コーチだった佐々木誠である。佐々木もまた、83年ドラフトでチーム最下位の6位で南海に指名されてプロに入っていた。その後、下位評価を覆し、90年代の初頭に首位打者を1回、盗塁王を2回獲得し、球界を代表するリードオフマンとして活躍した。年末年始に岡山に帰省した佐野は佐々木と会ったとき、こう言われた。 「入ってからが勝負だから。最初の3年が大事になるぞ。だから、死に物狂いでやるんだぞ」
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